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門に阿吽の狛犬…珍しいですね。
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創建不詳。三内村枝村小三内の正念寺は油川城主奥瀬氏が油川村に移して菩提寺とし、中興開山岌雲和尚、後の慶長13年(1608)に福島県三春出身の善波(良波)和尚がこの地を訪れて、元和5年(1619)に再建。「浄土宗諸寺院縁起」によりますと善波和尚は三代と記録されています。
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本尊は阿弥陀如来。
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寺宝の円空作木彫釈迦牟尼如来坐像は青森市指定文化財。
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墓地には奥瀬一族・森山弥七郎の墓があります。また、境内にあった観音堂は江戸時代に飛竜権現(飛竜観音)を祀っていた飛竜宮で、神仏分離に際して廃堂を命ぜられたといいます。
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森山弥七郎供養碑一基。
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『所有者:青森市大字油川字大浜 浄満寺。指定年月日:平成3年8月20日。大きさ:高さ93cm、厚さ33cm、幅70cm。この碑は、青森開港(寛永元年 1624)の恩人と言われている元祖森山弥七郎の供養碑である。碑の建立の経緯や当時の油川住民との具体的な関わりについては、不明な点が多い。また碑は、はじめ寺内野に建立されてあったという。その後、野木和公園の入口に移転され現在地浄満寺境内へは、昭和23年に油川町民の手によって安置された。碑面には、左のように刻まれている。「寛文六丙午年 元祖森山弥七郎 二月三日」』
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仁王門。
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小さな仁王像がありました。
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天明の大飢饉で餓死した人々を埋葬した千人塚。
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千人塚に建てられている五輪塔は油川城主奥瀬一族の墓と伝わるそうです。
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『今を去る200余念の昔、津軽の国はかつてない大飢饉に見舞われた。いわく天明の大飢饉である。「油川沿革誌」には、天明4年(1784)の項に、「去年から今年までこの町の餓死した人三百人。食を求めて流浪に出、居なくなった人四百人。遺体があちこちの道ばたに三々五々横たわっていても手をかける者がいない。見かねた代官は、浄満寺裏の畑に大きな穴を堀らせ、ここへ懇ろに埋葬させた」と書かれている。埋葬の導師は浄満寺19代良諦廣運大和尚。埋葬を指揮した代官は戸田與左衛門と佐藤林之丞の両名であった。以来ここを千人塚と名づけ、代々住職が読経を捧げてきた。合掌。天明4年を隔たること215年。平成11年8月3日。油川連合町会建立』
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