毘沙門天のみち…『このみちは、毘沙門山から、灯籠並木、舘山公園、萬鉄五郎記念美術館を通り東和町役場までの6.5kmのみちです。毘沙門山には木造の一本造りとしては日本一の高さを誇る兜跋毘沙門天立像があります。そこを下ると、300年程前から受け継がれてきた手すき和紙の工芸館があります。舘山公園は、桜といわて紫ツツジの名所で市街が一望できます。堂内にあった毘沙門天は保護のため現在は上の収蔵庫に安置され、建物だけが存在しています。毘沙門堂は中世以降真言宗の成嶋寺が管理していて、この建物は延宝元年(1673)に修理をしていますが、各部の仕上げや建築手法などから室町時代後期に建立されたものと言われています。言い伝えによると、毘沙門堂は坂上田村麻呂の建立あるいは慈覚大師草創と伝えられています。近年まで堂内には、平安時代に造られた兜跋毘沙門天(国指定重要文化財)が祀られていたことから、古くからこの地域が重要な信仰の場所であったことがうかがわれます。県内に残る数少ない中世建造物であることから平成2年に国の重要文化財に指定されています。』
車だったので一之鳥居ではなく、二之鳥居から向かいました。
三熊野神社由緒…『三熊野神社の本殿は、向拝流棟造りで、御祭神は熊野の三神で伊弉冉之命、事解男之命、速玉男之命を祀っています。言い伝えによると、延暦年中(782-806)征夷大将軍坂上田村麻呂がエミシ征伐の時、この地で紀伊の熊野三山に戦勝祈願をしたところ難なく平定することができ、熊野三山の神威を崇び熊野の三神を勧請し、三熊野神社を建立したと伝えられています。康平5年(1062)に源義家が安倍貞任を追撃しここに立ち寄った時、熊野神社に鏑矢を収めて戦勝祈願をしたところ安倍氏を破り奥羽を平定する事ができたと伝えられています。中世には和賀領主より社領70石を寄進され、元和4年(1618)に南部利直公より社領23石をいただいています。県内では数少ない古代建築様式をもつ建造物であることから昭和54年に県の有形文化財に指定されています。』
手水舎。
二色使いの両部鳥居。
古神札御守納所。
手水舎。
成島毘沙門堂と三熊野神社は参道が一応分かれているようですが、どちらからでも同じ場所に着きます。
三熊野神社。
向拝。
本殿。
御神木。
御神木の切り株。
出羽三山。
天照皇大神。
南昌山と…読み取れない石碑。奉献稲荷大明神と彫っているっぽい。
末社。
全国泣き相撲の幼児…阿吽ではなく勝者と敗者。
もう一つの参道から来た場合の両部鳥居。
泣き相撲の土俵。
土俵中央には男根と女陰の木が奉納されていました。
一応アップで。
熊野神社十二番角力式(泣き相撲)…『ここで行われる泣き相撲は、古くから三熊野神社の特殊神事で、正式には9月の例祭に行う十二番角力の式の事を言います。言い伝えによると、延暦年中(782-806)坂上田村麻呂がこの地で部下に相撲を取らせたのが始まりと伝えられています。その後、猿ヶ石川を境とした南・北成島の青年(22歳)による相撲は、勝利した方に豊作をもたらすという占いが流血の争いとなったことから宝永3年(1706)神社氏子の長男で、数え2歳の幼児による泣き相撲にかわり、南北にわかれ6組で取り組みを行い、先に泣き出した方が負けと決められています。現在は幼児成長と豊作を祈る行事として続けられています。江戸時代から続く民俗行事であることから平成5年に町の無形民俗文化財に指定されています。』
上代水道遺跡…『参道工事中発見した土管は、岩手大学の板橋源教授(県文化財専門委員)が調査の結果、上代の水道でわが国でも最も古い水道遺跡の1つである事が判明。境内から250mに及ぶ水源までの土管(内部布目)約170本が発掘され、文化庁で鑑査の結果、昭和47年7月31日文化庁長官から文化財と認定された。この水道遺跡が造営された年代や、誰が造営したのかは定かでないにしても、この地域における先人の文化が偲ばれる遺跡である。昭和47年9月』
このあまり当てにならない地図を見ると…
これは阿弥陀堂っぽい気もするのですが…
中には多聞天の神額だらけでした。
おみくじ舎…ハート型になっていました。
毘沙門堂前にあった建物。特に中には何もありませんでした。
毘沙門堂横にあった石仏と石碑。
毘沙門堂前の狛犬一対。
毘沙門堂。
兜跋毘沙門天がこちらに祀られている時に観たかったなー。
毘沙門堂…『建物は寄棟造り、鉄板葺のやや大型の三間堂で廻り縁と向拝がついています。堂内にあった毘沙門天は保護のため現在は上の収蔵庫に安置され、建物だけが存在しています。毘沙門堂は中世以降真言宗の成嶋寺が管理していて、この建物は延宝元年(1673)に修理をしていますが、各部の仕上げや建築手法などから室町時代後期に建立されたものと言われています。言い伝えによると、毘沙門堂は坂上田村麻呂の建立あるいは慈覚大師草創と伝えられています。近年まで堂内には、平安時代に造られた兜跋毘沙門天(国指定重要文化財)が祀られていたことから、古くからこの地域が重要な信仰の場であったことがうかがわれます。県内に残る数少ない中世建造物であることから平成2年に国の重要文化財に指定されています。』
参拝路は毘沙門堂の中に続きます。
毘沙門堂内。
鳴嶋観音。
鳴嶋観音の由来…『此の鳴嶋観音は、平成3年4月東京都内の株式会社を営む某氏が会社の隆昌と繁栄を願い、更には病気全快を祈り、屋敷内で崇敬していたが、満願成就されたことにより、多くのご利益を、沢山の人々に授かることを願い、当山に献納されたのである。この地、成島はかつて、鳴嶋と呼ばれ、その時代の地名から鳴嶋観音と命名した。金運財宝、病気平癒(癌封じ、うつ病)の御利益を授かりますよう、更にお祈りいたします。例祭法要毎年4月18日』
毘沙門天手姿。
毘沙門天手姿について…『この手姿は、昭和の大修理の折り、参拝者皆様に患部を撫で一日も早い全快を祈り便宜を図ったものです。多くのご加護をいただくことをお勧めします。「志を願います」』
毘沙門堂裏手の収蔵庫。
毘沙門堂を出て少し坂を登ります。
山王天龍之命碑。
山王天龍伝説…『この山王天龍は、この地から約200mほど離れた大蛇沼に棲み、水を司どり田畑能成に施与した大蛇である。しかし現在は大蛇沼の水も嗄れ数百年の歴史が流れている。伝えによると、平安時代「城主」時の征夷大将軍坂上田村麿の手により大蛇は追われ名称、蛇走の滝から猿ヶ石川に逃げ落ち大蛇は北上川を流れ下り、そのまま黒岩に身化したという生々しい伝説がある。現在の黒岩村落はその旧の所在地であったという言い伝えは今でも残されている。その後、大蛇沼の水は嗄れ、庶民や民百姓は非常に困った時代があった。大蛇もまた多難な幾歳月、年ふり年たけようよう大蛇沼に立ち戻り「山王天龍之命」として庶民に福徳を授け、現在毘沙門天の侍仏として仕え、貢献されている。山王天龍之命いわく「大蛇沼の跡より、黒色の石を所持してわが身代りに信心深めたるものには、その霊験(霊妙な力)ご利益を与える」との神通力のお告げがあったので、ここに慎み石碑を建立し今後ますます庶民の育成と発展を祈念するものである。昭和61年丙寅7月吉辰』
毘沙門天と味噌とのかかわり…『◎曽ってひそかな民衆信仰として毘沙門天立像の脛に味噌を塗り思い思いの祈願したという。この情景を見た宮沢賢治は詩碑に刻まれてある詩にあるように「…毘沙門に味噌たてまつる…」とよんだ。◎この祠に納めてある脛は実物と同型で言わば分身です。あなたも毘沙門天の脛に味噌を塗って家内安全、無病息災、商売繁昌、交通安全を祈願いたしましょう。600円です。』…最後の一文がとてもシュールですね。
御味噌奉納堂。
足がありました…でも味噌は…正直塗りたくない(笑)
宮沢賢治詩碑。
『アナロナビクナビ 睡たく桐咲きて 峡に瘧の やまいつたわる ナビクナビアリナリ 赤き幡もちて 草の峠を 越ゆる母たち ナリトナリアナロ 御堂のうすあかり 毘沙門像に 味噌たてまつる アナロナビクナビ 踏まるる天の邪鬼 四方につつどり 鳴きどよむなり』
宮沢賢治詩碑「祭日〔二〕」案内…『文語詩「祭日〔二〕」(文語詩稿未定稿)は、病気平癒を願い、毘沙門天に詣でて、その脛に味噌を献上する母親たちの姿を描いている。この作品は、詩作日が大正13年(1924年)5月23日となっている口語詩「一三九 夏」を、文語詩化したものである。詩碑は、花巻市母衣輪の川村健二氏によって、宮沢賢治の実弟清六氏に揮毫を依頼し、多田菊次氏が刻し、昭和34年9月21日に毘沙門堂脇に建立されたが、新収蔵庫への遷座にともない昭和62年6月7日現在地に移し替えられた。詩文の「アナロナビクナビ」、「ナビクナビアリナリ」、「ナリトナリアナロ」、「アナロナビクナビ」は、法華経陀羅尼品(ダラニホン)第26の中にある毘沙門天王が唱えた呪文、「阿梨(アリ)那梨(ナリ)菟那梨(トナリ)阿那廬(アナロ)那履(ナビ)拘那履(クナビ)」が途中よりおこされ、各連で尻取り式につなげられている。』
奥州総鎮護毘沙門天のいわれ…『日本一の巨像兜跋毘沙門天(国指定重要文化財)の鎮座する毘沙門堂は、今からおよそ1150年前、慈覚大師の開基と伝えられる。坂上田村麻呂のいわゆる「蝦夷征伐」から半世紀ようやく人心も落着き、田村麻呂は既に伝説上の人物として崇められていた。この成島の地にもその伝説は語り継がれている。当地は上流に遠野、上閉伊の村々を擁する猿ヶ石川を眼下に望む枢要の地である。対岸に征矢森と呼ばれる館跡があり、ここにたてこもった田村麻呂は、東の強敵大竹丸討伐に当たって、はるか紀州の熊野三山に祈願したところ勝利をえたので、当地に三熊野神を勧進した。この大毘沙門天を田村麻呂の生き写しとする伝説もあながち故なきことではない。毘沙門天は元来、北天守護神、施財天(福神)として尊崇されていた。大唐安西域に地天(産土神)の掌上に支えられて大地から湧出顕現し、その危急を救ったときの姿を、特に兜跋毘沙門天といい、都を初の重要拠点に安置される習わしとなった。当地の兜跋毘沙門天は像高473cm(地天共)、藍姿、毘藍姿の二鬼を従えた一本造の堂々たる巨像で、まさに「奥六郡」の中央に祀られ奥州総鎮護にふさわしい。平安京羅城門(現東寺安置)、九州太宰府観世音寺の像と「日本三大兜跋毘沙門天」と並び称されるゆえんである。伝吉祥天(国指定重要文化財)も気品あふれる名作であり東北地方における平安初期最優秀の傑作として名高い。伝阿弥陀如来立像(岩手県指定文化財)は当初は十一面観音として造像されたものであるが、胎内に承得(承徳)2年(1098)の年号があり、在銘平安仏として貴重である。このほか、数体の神像、仏像があり、当地は古代から霊地として栄えていた。江戸時代までは麓に別当成島寺があったが、明治初年の廃物毀釈により烏有に帰した。神仏混合 守護神は永劫に世界平和極楽浄土を祈念している。昭和62年新収蔵庫遷座祭を行うに至った。昭和62年6月7日』
いよいよ日本一の巨像兜跋毘沙門天です!!…が、毘沙門天はこの収蔵庫の中(撮影禁止)。是非とも実際に拝観しに行ってみてください。素晴らしいです。後悔はさせません。
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