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御祭神は誉田別命。社号標「村社八幡宮」(明治39年旧11月15日建立、為日露戦役従軍記念)。鳥居は石造両部鳥居、朱塗の木造両部鳥居、昭和59年7月14日建立の石造鳥居と建ち並びます。参道には石灯籠一対(明治39年旧6月15日、村中安全、発起人山口佐之助ほか)、手洗水石、石塔(斎藤作太郎他4名、碑石寄附者七戸茂男ほか)などがあります。
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坂上田村麻呂創建の伝説を持ちますが、慶長5年(1600)に村中安全の為に勧請。産土神として崇敬。相殿に稲荷宮があり、1堂2社が合祀されていましたが、明治4年に八幡宮とし、明治6年には沖館神明宮に一時合祀されるも同9年復社。
竹館村誌より…『抑々八幡宮の由緒たるや往古延暦年中田村磨将軍東夷征伐の時夷賊を掃蕩せんとて当地の海岸なる(往古此の辺一帯海なりしと云ふ)柏崎と申処へ陣を張り其処に八幡宮を祭りたり 夷魁昼は巌窟に潜み夜に至れば出で来りて毒気を飲料水に投じ将軍を謀殺せんとせり。時に将軍熟々按んずるに寧ろ是までの飲料水を断って他に清水を需めざれば毒気に斃るより他なしと 即ち陣舎の東方に萢油を製造する油沢与五左衛門と申者を呼寄せ「汝何れへなりとも行きて清流を探して陣舎に流せ」と命ずる。与五左衛門則ち川流を探りしに南方阿蘇神社の麓によき清水あり「如かずその清水を掘割によりて流し込まん」と復命せしに将軍大いに歓びその言の如くす 此処に於て飲料水豊かに又附近の開拓大いに進みたり。将軍与五左衛門の功を賞しその居住地を油沢と称し又その隣地を与五左衛門沢と名附けたりが与五左衛門はその翌年四月八日病に斃れたり。此処に於てその霊を北方服場森に葬りたり、因と服場森は将軍軍装を着替せし時服を掛けたる故を以て斯く云ひなせしが将軍与五左衛門の死を痛むの余り福場森と改めたりと、然して此の森に将軍の守護神たる八幡宮と稲荷宮を合祀し尚与五左衛門の冥福を吊はんとて山頂に釈迦如来を勧請せり、此即ち新館鎮守八幡宮と釈迦堂の由来なり 後将軍夷賊の潜窟を探らんとて北に向ひ此の地の陣舎を払ふ。出発に際し夷賊の部卒を埋葬せし所を石仏と称して長く祭れと下命せり 今の石仏の古蹟は即ち其なり又釈迦堂屋敷、釈迦堂の沢と申す処あり田村将軍の古歌に「浪立てゝ柏の崎を荒らし夷後世を頼む八幡大神」明治の初め神社御改正の折産神八幡宮と稲荷神社を祀れり 又旧蹟に田村将軍の駒を繋ぎし駒泊といふ処あり 今その地名残れり』
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以下境内にあった由緒より(平成21年11月吉日建立)。
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慶長5年(1600)村中安全のため、誉田別命を御祭神として勧請、産土神として村民崇敬の中心として建立(現在の釈迦堂の地)。
明治元年(1868)神仏分離令が発布される。
明治6年(1873)沖館神明宮に、合祀となる。
明治9年(1876)村民の熱い願いによって復社許可される(12月)。
明治10年(1877)現在の拝殿を建立村中で祝祭。
昭和14年(1939)建立後、度々の請願にも関わらず、村社昇格が許可にならず、漸く昭和14年7月20日、村社昇格が許可される。昇格記念碑を建立し村中で祝祭。
昭和20年(1945)神道指令により、神社は、国家及び地方公共団体の維持管理を離れた宗教団体となり民間の神社本庁によって包括された。
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拝殿。
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本殿。
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手水舎。
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狛犬一対。
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狛犬一対(明治38年旧11月15日、発起人中村忠次郎他30人奉献、石工宿川原蔵本富吉)
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御神馬像(昭和9年旧6月10日、発起人山口某奉献)・御神馬像(解団記念、昭和16年6月15日※入営兵名省略)
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本殿裏手にあった石碑です。
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一つは「大神宮」もしくは「太神宮かな。
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もう一つには文政10年3月10日紀年銘で「金毘羅大権現」とありました。
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東宮殿下御成婚記念碑。
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「豊かな道」(平賀町長原田忠太郎)。「豊かな道、昭和59年5月8日新館農道組合建立、新館地区樹園地農道網整備事業」
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石鳥居寄付者の碑(昭和37年7月15日、発起人氏子惣代斎藤作太郎他)。
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創立百周年記念碑。
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八幡宮昇格記念碑(昭和15年4月建立)。裏面碑文…『本村鎮座八幡宮昭和十四年七月二十日日附ヲ以テ内務大臣ヨリ社格昇進村社ニ列スル旨指令セラル吾等村民ノ欣幸詢ニ之ニ過ギス。抑々八幡宮ハ誉田別命ヲ祭神トシ慶長五年村中安全ノ為勧請セラレタル由口碑ノ伝フル所ニシテ爾来産土神トシテ村民崇敬ノ中心タリ。然ルニ明治六年沖館神明宮ニ合祀トナリ後村民ノ熱願ニ因リ明治九年十二月漸ク復社許可セラレタリト雖ドモ復社出願ノ手続ニ不備遺漏ノ点アリテ村社ニ列スルヲ得ス。無格社ノ儘今日ニ至リタルハ村民ノ等シク遺憾トシタル所ナリ。故ヲ以テ前後七回昇格請願ニ及ヒタルニ拘ハラス。常ニ其筋ヨリ却下セラレ来タ村民ノ願望ヲ達スルニ至ラス。偶々十二年ノ総選挙ニ際シ本村ノ縁故者タル小野謙一先生ノ衆議院議員ニ当選スルヤ村民ヲ代表スル区長小野理三氏等ノ懇請ヲ容レ屢々内務当局ニ事情ヲ具申シ意見ヲ開陳シ遂ニ当局ヲ動カシテ本村多年ノ宿望ヲ貫徹セシメタルハ吾等ノ深ク先生ニ感謝スル所也。茲ニ社格昇進ヲ機会トシ神域ヲ整備シ社殿ヲ修復シ神社ヲ中心トシテ村民ノ団結ト協和ニ依リ国民思想ノ源泉タル敬神崇祖ノ念ヲ涵養国体顕彰ニ邁進センコトヲ誓フ。今ヤ皇紀二千六百年ヲ迎ヘ村民相図リ記念碑ヲ建テ其由来ヲ録シテ永ク後世ニ伝ヘントス』
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天皇皇后両陛下御来県記念碑(昭和38年7月15日)。
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オリンピック東京大会記念碑(昭和39年4月建立)。
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使用されていない井戸がありました。
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摂社の貴船神社です。
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神社前の池にサンゴ打つそうですが、池の水はほとんどありませんでした。
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