イメージ 1
鷹森山の麓に鎮座。
イメージ 2
と、言われましても線路を横断しなければ参詣できません。
イメージ 3
イメージ 4
ってことで、気をつけて線路を渡ってください。
イメージ 5
イメージ 6
羽州街道沿いの鶴ケ坂村はかつて津軽坂村(外ケ浜と津軽平野を結ぶ代表的坂道であったことに由来)と称しており、文化14年12月24日に弘前藩9代藩主の津軽寧親により、津軽野村(弘前市内)が津賀野村に改称するのに併せて、鶴賀坂村と改称。近代となって鶴ケ坂村と書かれるようになります。村名の改称によって、津軽坂牧の牧名も鶴賀坂牧と改められました。
イメージ 7
イメージ 8
弘前藩2代藩主の津軽信枚の代に藩営の5牧が設置されますが、津軽坂牧は寛永15年に開設され、その規模は東西二里二十丁、南北三里、御馬立場所三ヶ所は古牧野・新牧野・岩瀬野、母駄十五駄、父馬一疋。元禄3年には将軍家へ、享保6年には近衛家へと良馬を献上。元禄9年の同牧牧頭は倉内小左衛門。はじめ藩牧では年中放牧していましたが、宝永3年以降半年は牧場所属の村民に養わせたといいます。菅江真澄が津軽の奥にて『馬をたくさんひいて道もふさがるほどとおって行くのは、津軽坂という牧の馬であろうか。父馬をさきにたて、母駄馬も捕えて、それを近くの村々の馬柵で千草のまぐさを与えて飼い養い、冬ごもりをさせて、雪が消え若草の萌えでるのを待って、その牧々の野原に放し飼う週間であるという』と記しています。
イメージ 9
イメージ 10
イメージ 11
藩営5牧は天明の凶作で一時廃絶、寛政7年に再興するも、天保3年には当牧以外の4牧が閉鎖し、最後に当牧も天保10年をもって廃止されました。
イメージ 12
イメージ 13
馬頭観音を祀る惣染宮は寛永15年に3代藩主津軽信義が牧場にちなんで創建。検地帳には観音堂とみえ、神社書上帳には惣染宮とあり、御祭神は保食神。
イメージ 14
イメージ 15
イメージ 16
信義直筆の絵馬が社宝として伝わります。明治4年の神仏分離にて保食神社になります。
イメージ 17
イメージ 18
津軽坂の牧(保食神社)…『津軽藩は、寛永15年(1638)南部領倉内村の牧司、倉内兵部の弟図書を知行三百石で招き、津軽坂に牧場を造りその経営に当たらせた。牧場の規模は、東西二里、南北三里、下付された馬は、牝馬十五頭、牡馬一頭であった。また、村に惣染堂(馬頭観音)を一宇建立して馬の守護神にした。寛文11年、藩主信義に良馬一頭を献納したことから、藩主の御染書が奉納されご神体として祭られるようになった。以後、惣染宮と改められ歴代藩主の崇拝の宮として、明治2年まで年々金一両二分を祭事費として藩から下賜された由緒のある宮であった。天保10年(1839)、藩の財政事情等から牧場は閉ざされたが、二百余年間、津軽五牧の一つに数えられ馬の改良、繁殖、調教等に当たった。明治4年、惣染宮が一時廃止され、明治6年村社「保食神社」として継承された』
イメージ 19
本殿。
イメージ 20
狛犬一対。
イメージ 21
イメージ 22
庚申塔。
イメージ 23
手水舎にも馬がいました。
イメージ 24
イメージ 3
イメージ 2