

妙龍寺の仁王門。


立派な木彫りの龍。


仁王様…これは新しい(笑)


創建は寛文年間(1661-1673)で、開山は妙竜院日源、開基は光順院日逞。

飯詰古城跡に位置し、南朝中臣藤原藤房卿の末孫である高楯城主朝日左衛門尉藤原行安が七面大明神を勧請する鎮守堂を創建。

寛文年間の普明院の代に飯詰桜田の地に七間四面の精舎を建立して法布山正行寺と称しますが、宝永4年(1707)、智養院日量により小泊港に移転。享保15年(1730)に田越山三郎が七面堂の再建を発願し、宝暦8年(1758)に七面尊像を奉安。宝暦11年(1761)に法峠より来た光順院が正行寺旧跡を偲んで庵を結び、正行庵と称します。天明4年(1784)に庵室を焼き払われる災難に遭い、天明6年(1786)に再建するも興廃を繰り返します。昭和16年に飯詰結社と改め、津軽随明師を担任教師とし、同22年に工藤随源師を初代住職として寺号公称に至ります。

妙龍寺沿革…『當山は日蓮宗に属し飯詰古城蹟に有り、往昔高楯城主藤原行安感ずるところありて、法華経の霊神たる末法鎮守七面大明神を舘神として勧請し七面山鎮守堂を創建し給ぶが當寺の起源なり。寛文年中普明院の代七間四面の精舎を建立し正行寺と稱せり(三百余年前)。寛永四年仔細ありて智養院により小泊港に移転せらる(三百六十余年前)。享保十五年神山の住人田越山三郎霊夢により七面堂再興を發願し寶暦八年御尊像を奉安して心願成就せり(二百三十余年前)。寶暦十一年光順院法峠より来りて正行寺旧遺を偲びて庵室を結び正行庵と稱す(百九十余年前)。天明四年權門徒一味の為に庵室焼拂われたり。天明六年(百七十余年前)再建すれども興廃常ならずとなれども歴代各師の刻苦修行に依り法燈滅する事なく維持され昭和十六年飯詰結社と改め昭和二十二年随源(現住職)入山するに及びて其の由緒凡ならざるを知悉しここに一躍寺院に昇格して高楯山妙龍寺と公称するに至れり。』…読みにくい…って思ったら新しいのもあった!!せっかく解読したのに…悔しい(笑)

改めて…『当山は日蓮宗に属し飯詰古城蹟にあり、往昔南朝中納言藤原藤房卿の末孫高楯城主朝日左衛門尉藤原行安感ずるところありて、法華経の霊神たる末法鎮守七面大明神を舘神として勧請し七面山鎮守堂を創建し給う。寛文年中普明院の代、飯積櫻田の地に七間四面の精舎を建立し法布山正行寺と稱せり。寛永四年仔細ありて智養院によりて小泊港に移転せらる。享保十五年神山の住人田越山三郎霊夢により七面堂再建を発願し宝暦八年御尊像を奉安して心願成就せり。宝暦十一年光順院法峠より来りて正行寺旧跡を偲びて庵室を結び正行庵と稱す。天明四年權門徒一味の為に庵室焼拂らわれたり。天明六年再建すれども興廃常ならず歴代各師の刻苦修行に依り法燈滅する事なく維持され昭和十六年飯詰結社と改め津軽随明師をして担任教師たらしめ昭和二十二年随源(現住)入堂するに及びてその由緒凡ならざるを知悉しここに一躍寺院に昇格して高楯山妙龍寺と公稱するに至れり。』

五所川原市の有形文化財(平成13年指定)となっている妙竜寺七面大明神宮殿。

虹梁や木鼻の彫刻から宝暦期(1751-1763)の頃と推定されているそうです。


菅江真澄碑(外浜奇勝)…『寛政8年(1796)6月17日、飯詰の里にさし入る。右のかた岨の中に七面の堂あり麓に、ほくゑきやう(法華経)よむ声のこかくれに聞えたるは庵にや寺にや』。『松野木村を経て、野原のなかに家の七、八軒ばかりある金山という村に休んで、平町村を過ぎて、ほどなく飯詰の村にはいった。右方の崖の木のなかに七面の堂があり、その麓で法華経を読む声が木の間から聞こえてくるのは、庵があるのだろうか、寺であろうか。こちらには稲荷の祠があるのであろう、茂る岡辺の木草の間に朱の鳥居がみえた。飯塚というところは、みなむかしの城柵のあとであるとか。』

木村助男詩碑…『「土筆(ベベコ)」…土(つぢ)ア出(メ)れば火(シ)付ぐだけネ いそがしふて 水(みづ)アだつぷらどたまてら 小川端(ヘギブヅ)の春(シ)陽あだりさ 土筆(ベベコ)アやだらど伸(オガ)てだをン』津軽弁が読みにくい(笑)標準語にすると…『土が見える(雪が融ける)と火がつくほど忙しくて水がたっぷり溜まっている小川のふちの陽当たりにつくしがいっぱい生えてたよ』。木村助男は1916年飯詰村に生まれ、日中戦争では水兵として活躍。肺結核を患って帰郷し、方言詩と出会います。「土筆」は未発表、自薦の35編からなる方言詩集で、昭和18年に刊行されましたが、刊行される数日前に27歳の若さでこの世を去りました。

城跡の山を登っていきます。


霊山橋。

梵鐘。

蘇生ノ鐘とありました。

その横には…『刻苦は光明の因』日蓮。

崖伝いに登って行くと高楯城址(あすなろの家)資料館があります。

お城風の建物ですね。

中を覗いてみましたが特に何もありませんでした。


周囲にはたくさんの句碑が建てられています。


康永3年(1344)、後醍醐天皇の側近万里小路藤房の息子である藤原景房によって築城されましたが、天正16年(1588)大浦為信によって滅ぼされ、万里小路藤房より10代目の城主朝日行安は自害し、飯詰城は廃城。一族も徹底的に捜索された末に惨殺され朝日一族は滅亡。なお、大浦氏により包囲された際には城内に通じる水脈を絶たれましたが、白米で馬を洗って見せるなどの必死の抵抗を見せたという言い伝えがあります(白米伝説)。また、糠塚川に鎧を捨て逃亡を企てるも力尽きて主従は自害したという逸話が残り、鎧留の由来となっているようです。落城の際に城址周辺では鎧武者や女の亡霊が現れたり、日照りや長雨などの天候不順に見舞われ、これは朝日一族の祟りであると噂されたそう。

写真のように道があり、山頂(標高58.8m)の主郭には高楯城址の碑と千秋忠魂碑があります。それ以外は特に何もないようなので私は行きませんでしたが。

再会の碑(植樹記念・戦争で亡くなった人を偲ぶ碑)。

高楯城址由来…『奥州津軽奥法郡飯積に位する高楯城は藤﨑城主京師管領代官安東十郎五郎貞季殿が弘安元年に夷治の柵として築城せしは高楯城の創りなり。降りて興国二年七月萬里小路中納言藤原房公の胤景房殿が安東三郎宗季殿より飯詰の座を分領なして君臨し茲に高楯城は城郭として堅固に築城されたり。爾来高楯城主の継君せること十三代朝日左衛門之尉行安殿の世代即ち天正六年七月行丘城主北畠朝臣顯村殿が大浦為信の侵領を受けて一夜のうちに落城されてより為信がいよいよ以て津軽平征の野望に燃え破竹の勢力を挙して津軽六郡を攻略せしめたり依て古来より北畠氏と倶に宮方に属せし高楯城主朝日左衛門尉藤原行安殿は大浦為信の奸策に怒り飯積武士及び農民夷人等を皆兵として挙兵せり阿修羅の如き大浦勢と相対して攻防実に十有餘年原子舘の合戦尻無柵の合戦神山の合戦悪道柵の合戦金山舘の合戦盛越柵の合戦金神舘の合戦喜良市の合戦白旗八幡の合戦中山大坊の合戦等を経て遂に天正十六年六月十六日高楯城主従は玉砕の意を決し先づ以て老臣女童を密かに秋田旭川の地に脱難せしめたる後高楯城に残る寵城の兵は主従倶に二百七十餘名なり夜明ける辰の刻城主自ら弟なる十三湊判官樺沢団右衛門藤原行貞殿と水盃し自ら高楯城に火を放つ軍神麻利支天の如く大浦軍の陣営に斬込みて刀折れ血の流れ出づる限り戦ふて壮烈な武人の最期を遂げたり(以上東日流外三郡誌より)。歌人菅江真澄翁の曰く、ものふのかけし鎧かふちなみかよせてをまたで泡と消えけむ』。東日流外三郡誌によるもの…津軽一統志では朝日氏と為信の戦いについて全く記されておらず、また、私の愛読書である『津軽ふるさと散歩』にて、外三郡誌と高楯城についての疑問点などが約2ページに渡って記述されているので、興味のある方は読んでみてください。

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