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境内に色々案内説明板があったので、それに忠実に紹介します。
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御祭神について。
主祭神:建速須佐之男命・宇迦能御魂大神。
相殿:櫛稲田姫命。
右御子五男神:天忍穂耳命・天穂日命・天津彦根命・熊野樟日命・活津彦根命。
左御子三女神:多紀理姫命・市杵島姫命・多岐都姫命。
相殿:大鳥神社(御祭神:日本武命・天日鷲大神・大鳥連祖大神)
相殿:大国主命
摂社:天白稲荷神社(主祭神:倉稲魂大神、相殿:天照大御神・應神天皇・神功皇后・大山祇神・別雷神・天之水分神・国之水分神・高おかみの神・火之迦具土神・大宮賣神・大年神・御年神・菅原道真公・疱瘡神・天之児屋根命・猿田彦神・大物主神)
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ちなみにこの石段、映画『君の名は。』で、最も印象的なシーンにて登場します。
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由緒…『須賀神社はもと稲荷神社であった。稲荷社は往古より今の赤坂一ツ木村の鎮守で清水谷にあったのを、後、寛永11年に江戸城外掘普請のため当地に移されたものである。須佐之男命の鎮座の儀は、寛永14年島原の乱に日本橋、大伝馬町の大名主馬込勘由なる者幕府の命により兵站伝馬の用を勤め、その功績により、現在の四谷中心部商地一円の支配権を拝領した機に、寛永20年、神田神社内に祀ってあった日本橋大伝馬町の守護神を地元氏の総発意により、四谷の氏神様として勧請し、翌寛永21年6月18日に稲荷神社に合祀し、以後御両社として祀るようになった。通称四谷の天王様として明治維新まで親しまれて来た。明治元年に須賀神社と改称され、明治5年に郷社に昇格、戦後は制度改正により旧社格は撤廃された。戦災前の御社殿は文化11年8月に起工し、15年の歳月をかけ、文政11年12月に竣工、社殿は権現造りの比類なき立派な建物であったが、昭和20年5月24日の東京大空襲の折、御本殿並びに御内陣と摂社天白稲荷社を残し、外一切の建物が焼失した。然し戦後氏子崇敬者の赤誠により今日の復興を見るに至った。』
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宝物…『戦前は多くの社宝があったが戦災により殆んどが焼失した。その中で幸いにも御内陣の金庫に納められていた三十六歌仙のみが辛うじて焼失を免れ、今日新宿区の指定有形文化財絵画に指定されている。画は四谷南蘋と称された高芙蓉の高弟大岡雲峰(当時73歳、天宝7年の作)書は千々逎舍と号し、正三位中納言で公家の千種有功郷の書である』
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四谷の総鎮守須賀神社…『四谷の産土神で、祭神は建速須佐能男命と宇迦能御魂命の二柱です。かつては、牛頭天王社と稲荷社の2つの神社であったもので、江戸時代は稲荷天王合社と呼ばれ、明治にはいり須賀神社と改められました。稲荷天王合社のうち稲荷社の由来については、次の2説が伝えられています。1つは、かつては麹町11丁目清水谷にあり、一ツ木村の鎮守であったものが、同村にあった別当宝蔵院(神仏習合の時代、神社には別当寺があり、そこの僧侶が社僧として神社の儀式に携わりました)が、寛永11年(1634)に現在の須賀神社の場所に移ったのを機に、稲荷も移転してきたというものです。もう1つは、稲荷社は、現在の勝興寺(須賀町8番地)境内にあった椎の大木の根元に祀られており、宝蔵院が清水谷にある頃から稲荷社まで注連飾りの奉仕に来ていたため、寛永11年に勝興寺が移転してきた時、相談のうえ宝蔵院(現在の須賀神社)に遷座したという説です。牛頭天王社のほうは、寛永18年(1641)に、神田明神内の牛頭天王社を四谷のお仮屋横町付近に小祀を建て祀ったものだそうです。ところがこの牛頭天王社に参詣人が多かったため、寛永21年(1644)寺社奉行に願い出て、同年6月18日に宝蔵院境内の稲荷社と合祀し、現在の稲荷天王合社となったものです。以来、稲荷は鮫河橋・権田原の、天王は四谷の鎮守として崇敬され、現在は四谷地区18町会が氏子町となっています』
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三十六歌仙絵(新宿区指定有形文化財 絵画)…『三十六歌仙絵は、平安時代中期の公卿藤原公任(966-1041)が、過去および同時代の優れた歌人36名を選定したもので、万葉歌人から柿本人麿・山部赤人・大伴家持の3名、平安時代前期の「古今集」「後撰集」頃の歌人から紀貫之・在原業平・小野小町ら33名が選ばれています。三十六歌仙絵は、それぞれの歌人の肖像画に代表作一首を書きそえたもので、平安時代後期に出現した似絵という肖像画の影響をうけ、鎌倉時代初頭に成立し、江戸時代まで盛んに描かれました。須賀神社の三十六歌仙絵は、三十六歌仙を1人1枚の絵に仕立てたものです。縦55cm、横37cmの絹地に彩色したもので、現在は額装され社殿内に掲げられています。当時、画家として高名だった四谷大番町(大京町)に住む旗本大岡雲峰(1764-1848)の絵と、和歌や書画で人気を博した公卿千種有功(1797-1854)の書により、天保7年(1836)に完成・奉納されたもので、四谷の総鎮守として信仰をあつめた須賀神社の隆盛を物語る文化財の1つです。』
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社殿。
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祖霊社。
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『須賀神社が古い歴史と今日のような立派な御社殿と荘厳なる境内を保ち、御神威四方満ちて御社頭の御繁栄を遂げておりますことは、此れ偏に須賀神社創立以来、数百年に亘りまして心からなる御奉仕を戴いて参りました、歴代の宮司を始め神社責任役員各町氏子総代、四谷惣町睦会、四谷第三区四番組等区内外の多くの氏子崇敬者各位の御蔭と存じ、この祖霊社に奉斎致してあります。私共は今日あるを喜び、すでに帰天の霊となられました諸先輩の方々の、御霊をお祭り致すことに偏って、祖先崇拝の精神を涵養し皆様と共に感謝の誠を捧げ、日々御神明への御奉仕を致したいと思います。』
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大国主命。
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手水舎と神楽殿。
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神輿庫。
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社務所。
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天白稲荷神社。
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狛犬。
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横には冠木門がありました。
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これは力石でしょうかね。芝田町九町目と彫られているのはわかりました。
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飯塚正兵衛翁顕彰胸像。
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碑銘…『飯塚正兵衛翁は常に敬神崇祖の念を至上とし戦後の世情混乱期より幾多の困難を克服し30有余年の長きに亘り歴代の責任役員及び氏子総代と共に終始当神社の為に神慮を畏み赤心の誠を以って氏子の代表として宮司を援け衆意を善く一にし堅忍不抜は言うに及ばず一意専心献身的な努力を重ね神社の復興を成し神威の高揚と神徳の顕揚に尽されし其の業績は多大たり。依って茲に氏子総代相詢り功績を称え之を不朽に伝う。昭和57壬戌6月2日建立』
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慰霊碑。
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男坂から来たので、帰りは女坂を下ってみます。
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男坂に比べるとかなり勾配が緩和されますね。
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踊り場もございます。この中にも神輿とかあるのかな。
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坂下には日蓮宗 稲荷山 妙行寺がありました。
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縁起…『抑、当山は凡そ500年前、後奈良天王の御宇江戸城際に開闢草創せる、真言宗寺院なりしが、時の往持頻伽法印、身延山第11世行学院日朝上人の教化を受け、寛正の頃、日蓮宗に帰属せしものなり。その後、西紀1457年長禄の年、本立院日純、開山となり基礎を確立す。慶長19年に於て徳川氏開府の砌、江戸城域拡張に従い、朱印内寺構への為現在地に移り今に至るまで伝統を保てるものなり。当山に祀る稲荷尊は身延山開創の草分分体にして草分稲荷尊と称し、日朝上人と並んで地民の鑽仰厚かりしという。又、本堂に安置し奉る日朝上人の御尊像は頻伽法印報恩の為、彫刻せしものなりという。当山8世玉峯院日静は、身延山第36世潮師法縁々祖六牙院日潮上人と親交深く、当山に残れる書簡により信仰の交流細やかに布教者魂意気投合せりという。とくに日静は法華経壹萬部・読踊の功徳を以って豆塚を築き、当時流行せる疱瘡をしずめたことにより、上人の徳を慕い諸人の参詣、後を絶たざりしという。
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10代将軍家治の時、当山篤信伊藤氏の娘、側室として仕え、その縁により、一族、大奥の中﨟等の薬務につくもの多く、とくに興善院殿篤誉諦泰大禅尼の法号を授与された方は将軍家の信頼ことの外厚く、その縁により当山に赤門建立を許されたという。故に四谷麹町界隈に赤門寺として有名を馳せ、多くの外護丹精を受けたりしといわれる。その由縁は墓地及び顕彰供養塔に刻記し後世に伝へらるるなり。赤門に彫られし竜の彫刻は、当時、安永の名匠飛弾の甚五郎作と伝えられ、そのすばらしさは衆目をみはらせるものありしという。
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当山檀徒、瀬名貞雄は江戸の國学者として著書も多く「室町三礼記」「十二月故實」「関東補任記」「殿上故実附記」等を著し江戸の地理に詳しく太田南畝との瀬田問答は当山で行れしものという。当山は其後、関東大震災には微動だにせざりしが、今次大戦により、赤門、土蔵造りの本堂日朝堂、稲荷堂等、悉く烏有に帰し現在の本堂、客殿、庫裡は戦後建立せしものなり。』
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