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東は陸奥湾、南は大橋村、西は中山山脈で金木村、北は四戸橋村に接する後潟村。
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建武2年(1335)3月10日の北畠顕家国宣(遠野南部文書)によりますと「外浜内摩部郷并未給村々泉田湖方中沢真板佐比内中目等村」が「南部又次郎師行同一族等」に宛行われており、この内の湖方は潮方で後潟村。
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安東四郎の居城といわれる尻八館(1230年アイヌのチャシを土台に築城。1300年安東孫次郎城主。1393安東四郎道貞(潮潟四郎)城主。1435年落城。)跡は集落西方4kmに位置(摺鉢山)。この地方は鎌倉時代以来安東氏の支配下でした。安東一族は海上安全の守護神として熊野権現を尻八館に祀っていました。
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後潟神社は元は熊野大権現であり、正安2年(1300)建立と伝え、尻八館と時代が一致。
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安政2年(1855)神社微細社司由緒調書上帳によりますと、地内平野の熊野宮に大永5年(1525)の棟札があったといいます。
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また、末社として山神宮と惣染宮がありましたが、江戸時代に廃社となり熊野宮に合祀されています。また、後潟と蓬田と金木の境にある大倉岳山頂には大倉岳神社がありますが、これは昭和5年に後潟営林署担当区主事が「われは大倉岳山頂の神木花開耶姫である」とお告げを受けて創建したものとの言い伝えがあり、後潟神社境内には大倉岳神社の里宮があります。
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熊野宮は天和3年(1683)村内安全のために勧請され再建。
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安永年間(1772-1781)からは五穀豊饒を祈り、7代藩主津軽信寧の命により、油川村神明宮と共に鳴弦神楽を奏したそうです。
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明治6年に神仏分離によって後方神社と改称し、その後現社号に。御祭神は伊弉那岐命・伊弉那美命。
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境内にあった御大典紀念碑・庚申塔。
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末社。
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