藩政時代には茂庭周防屋敷で、現在は仙台大神宮の地となっています。
茂庭周防屋敷跡…『茂庭氏は伊達氏第一世朝宗以来の功臣で志田松山15,000石を領す。鬼庭氏と称していたが、朝鮮出兵の際に政宗公に従い、秀吉に謁し寵遇を受け、秀吉の命により茂庭の姓を名乗るようになり、のち代々茂庭氏と称した。伊達騒動(寛文事件)の時、周防は病をおし奔走し忠誠を尽くし江戸において乗物ご免の栄を受けた。「重禄者をして国政を執らしむ勿れ」と自ら職を辞し、松山に帰る。4代藩主綱村公はしばしば松山の屋敷に訪れ、佩刀器物を与えその功をねぎらった。宝永3年(1706年)年7月6日没。』。
御祭神は天之御中主神、伊弉諾尊、伊弉冉尊、天照皇大神、豊受大神。
境内社に千座霊、荒牧豊河稲荷、白尾、猿田彦神々。
手水舎等。
祈願受付所。
社殿向拝。
本殿には千躰仏を併祀。
末社。
仙台名称沿革碑など。
筆塚。
蒙古碑(板碑)。
由緒…『当大神宮は申すまでもなく伊勢神宮を本宗と仰ぎ分祀された由緒ある神宮である。伊勢神宮は、内外宮を併せ奉り神宮と申し上げ宮内におかれては代々御祖神と仰ぎ奉り我が日本国民敬神崇祖の魂の拠所として諸神社に冠絶する地位にあり全神社の最高最貴の宗祀として遍く人々の信仰を集めて居り其の神宮にては明治維新に際し大教宣布の政府方針に呼応し明治4年、伊勢に神宮教院が開設され、神宮の御神徳の発揚惟神の大道の宣布の運動が行われ全国を31教区に区分し、枢要の地に本部を配置した。その第4教区宮城本部設営に当たり伊勢神宮称宜国文学者久米幹文が御分霊を奉持し仙台にきたり、青葉城に対峙し広瀬川を望めるかの有名な寛文事件(伊達騒動)で功労のありし家老茂庭周防邸であり又現在の仙台地名の起源である千体仏(千体より仙台となる)を信奉し奉れる伊達政宗公が築城開府の折遷せし片平丁の現在地に御遷座、神宮教奥羽教会所を設立したのに始まる。降りて明治32年神宮奉斎会が新設され、ここに神宮奉斎会宮城本部と改称される。日本全国における神前結婚式の創設は奉斎会からである。即ち宮中婚約令16条を以て時の皇太子(後の大正天皇)は九条道孝公爵御息女節子姫と明治33年5月10日御成婚の儀を執行われたのに始まる。当大神宮も県内の神前結婚式の草分けとして厳粛に多くの夫婦を結びし婚儀の宮である。昭和21年終戦を迎え米国占領軍の所神道指令に依り宮城本部の解散と名称の変更を余儀なくされ同年4月16日宗教法人令に基づき宗教法人仙台大神宮を設立し連綿として伊勢の、神々を御祭神と奉じ幾多の変遷を重ねつつ宮城のお伊勢様として宏大無辺の御神徳、尊崇を集め御光を仰ぎ、地鎮祭、竣工祭等、諸祭典執行の由緒深き神宮として現在に至。』。
境内案内板より(由緒は上記の内容とほぼ同じ)…『●仙台大神宮について:祭神は表記のとおりですが、伊勢神宮を本宗と仰ぎ分祀された由緒ある神宮です。伊勢神宮は国民敬神崇祖の魂の拠所として諸神社に冠絶する地位にあり、全神社の最高最貴の宋祀として、あまねく人々の信仰を集め、江戸時代から「お伊勢参り」の物語りが随所にあり、人々は一度は是非参拝したいので「講」などを作り「お伊勢さん」は暮らしの中にあった。当神宮は明治4年伊勢に「神宮教院」が開設され、神宮の御神徳発揚のため全国を31の教区に区分し、その要地に本部を設置したが、その第4本部は仙台だったので、明治14年、青葉城に対峙し広瀬川を望める、かの有名な寛文事件(伊達騒動)の功労者である家老茂庭周防邸(現在地)に伊勢から分霊し「神宮教奥羽教会」として設立された。大東亜戦後は宗教法人「仙台大神宮」となり、諸祭典執行の神宮とし現在に至っている。なお現在の「東京大神宮」「北海道大神宮」「新潟大神宮」とは同系列です。●神前結婚式について:全国の神前結婚式の始まりは「伊勢神宮奉斎会」が始めで、それは明治33年5月10日宮中婚約礼16条で成婚された皇太子(後の大正天皇)の儀式が最初です。当大神宮も県内神前結婚式の草分けとして厳粛に多くの夫婦を結んできた婚儀の宮でもあります。●筆塚について:境内参道右手前にある石塔で建立は古くないが、書道の上達と、その筆への感謝を込めたものとして同人・多数の人名が刻まれている。●千躰仏について:青葉山から「千躰仏」の一部を遷祀された当時は一時ここは「千躰仏屋敷」とも呼ばれたが、境内にかつては「千座霊神社」の祠があり「千躰仏」が安置されていた。現在は仙台大神宮内にある「千座霊神祠」に祀られていて拝見することはできないが、一部別置保存されているものは見ることができる。「千躰仏」はいずれも地蔵菩薩像で、全体数は704躯で、木造塑造の2種で、塑造が多い(646躯)。像高は約12糎-13糎ほどで、木造仏の材質は「ヒバ」材であるという。製作時期は木質のものは江戸時代以前のものとみられ、塑造のものはほとんど明治以降のものと見られている。●蒙古碑について:仙台市内には「蒙古の碑」と呼ばれる板碑が3ヶ所あり、ここ片平の仙台大神宮境内と、善応寺(宮城野区燕沢)境内、川内・仙台城二の丸跡ですが境内の碑は、高さ90糎の安山岩で、碑文は摩滅し判読しがたいが、弘安5年(1282)の刻印がある。いずれも蒙古軍戦没者の追善供養のため建立されたものである。●茂庭氏について:仙台藩家臣に藤原姓で斎藤内蔵人行元を祖とする「茂庭」家がある(一族は6家ほど)。始めは山城国(京都府)に住み、平治年間は下総国佐倉(千葉県)そして下野国(栃木県)那須に住んだ。のち伊達郡(福島県)茂庭邑で大蛇退治をした。この頃から伊達六世朝宗に仕え、鬼庭邑の領主となる。伊達十六世「輝宗」の代は羽州置賜郡(山形県)長井荘で2000石の評定役となり、以後2~3ヶ所を転住し、文禄元年(1592)豊富秀吉の命により、「茂庭」と改姓した。綱元の子、良元(佐月)は慶長5年摺上川の戦功により、同7年(1602)仙台城の東、片平丁大町頭に居宅を与えられ、同8年に松山郷に移る。元和2年(1616)から35年間奉行を務め、禄高11,255石の重臣だった。●なお、例大祭は10月17日(曜日に関係なく)。祈願は指定日はないが予め予約して下さい。』
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