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大根子村。
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御祭神は迦具土神。
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脚無御神馬。
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村内新城館に長福山極楽寺を建て不動尊を勧請。文中年中(1372-1375)極楽寺は田舎館村へ移り、不動尊だけ村の産土神として残ったと伝えます。
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新撰陸奥国誌によりますと、「旧は不動の像を安す木像にして、寛永12年未8月源正坊作と注し棟札に寛永7寅年9月別当源光坊願主二本柳孫右衛門再建。(中略)明治6年軻遇突知命に改祭せり」とあります。
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相殿に豊受神・稲荷神・八幡宮がありました。
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青森県神社庁HPによりますと、『昔、坂上田村麻呂が蝦夷征伐の時、神仏の加護を願って大根子村新城舘に長福山極楽寺を建て不動尊を勧請したという。その後極楽寺が大根子より大曲の鳥巻に移り、文和年中(1352-1355)浅瀬石川欠崩により、更に田舎舘へ移ったといわれている。その時同寺護摩堂の不動尊を大根子村産土神として堂社に安置したという。そして堂社帳又は山伏(延宝8年)には「大根子村不動堂者正保二年建立之堂也別当大徳院」と記されている。その後明治9年の新撰陸奥国誌には愛宕神社として次のように記録されている。「旧は不動の像を安す。木像にして寛永十二年八月、源正坊作と称し。棟札に寛永七庚午年九月別当源光坊、願主二本柳孫左衛門再建とあれば寛永以前の草創としらる。』とあります。
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石造鳥居奉納建設記念碑…「百十余年前に神社シンボルとして建立された木製鳥居は今日までその大役を果たして参りましたが、老朽化が進み遂にその役目を終える時となり解体に至った次第です。本石造鳥居は昔を偲びながら今をも見つめ、次の時代大根子発展を心から念じここに愛宕神社崇敬者の御寄進を基に、永久保存を踏まえ石材を用いて本日建立に至りました。平成20年4月28日 愛宕神社氏子一同 石造鳥居奉納委員会」
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慰霊碑。
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碑文…「大東亜終戦後30有余年、日本は戦争の荒廃から立ち上り、世界に類を絶する復興をとげました。ここに我等一同相計り、国家郷土の存亡と肉親の幸福を祈りつつ国難に殉じられ、国家の礎となられた勇士の心情を偲び、功績を讃え緑樹覆う愛宕の森に碑を建立して永く英魂を慰霊するものであります。願わくば国家郷土のより大きな繁栄と世界の恒久平和のためにご加護あらんことを。昭和54年4月23日 大根子建立委員会」
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堂宇。
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庚申塚等。
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その他石碑。
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