仙台城址へ向かいます。車で上まで行けるのですが大橋・大手門から歩いて上ります。ちなみに全部は回っていません。一部の紹介になります。
天然の外濠…広瀬川。
地図。
子門跡付近にある満州事変軍馬戦没之碑。
三の丸付近。
五色沼。
二の丸石垣。
支倉常長像。
大手門跡。
大手門脇櫓。
中門跡。
沢門跡。
色々な場所で工事中でした。
本丸北壁石垣。
でかっ。
ながっ。
たかっ。
本丸詰門跡。
仙台城鳥瞰図。
仙台城の歴史…『仙台城は初め千体城、後に千代城と称し、鎌倉時代の末から室町時代の中頃にかけて島津氏が陸奥守として居城したといい、室町時代の末頃には国分荘の国人国分氏が一時居城したともいい伝えられるが明らかではない。豊臣氏の頃、後の仙台藩祖伊達政宗公は天正19年(西暦1591年)以来58万石を領して玉造郡岩出山城に在ったが、慶長5年(西暦1600年)関ヶ原の戦いに徳川家康を助け、石田光成と呼応した会津の上杉景勝を牽制し家康をしてニ正面同時作戦の不利を回避させた功により新たに刈田郡を増加、仙台60万石(後ち近江、常陸で2万石増加)に封ぜられた。この時政宗公34才、大いに工を起して仙台城を築城、同時に戸数1万8百人口5万2千の城下町を開いた。2代忠宗に至って二ノ丸、三ノ丸を造営し、62万石の雄藩にふさわしい城郭を完成した。かくして仙台城は藩祖以来伊達氏、13代270年にわたり1度も戦火を被らなかった平和な城として郭内の殿舎、楼櫓を完全に保存して明治時代に至ったが、心無き俗吏によって破却せられ、あるいは火を失し、戦災に罹りなどして全滅に帰した。尚本丸の地は仙台七崎の一つ青葉ヶ崎で仙台城の俗称を青葉城とよぶのはこのためである。』。
愛知揆一像。
本丸跡もほとんどが工事中。
顔ハメ看板。
グルメな殿様伊達政宗公…『政宗公は、徳川の世となった後半生、グルメ三昧食道楽の日々を送った。自ら朝晩の献立を考え指示し、高価で季節感あふれる旬の食材を盛り込んだ。将軍家光公を迎えた時の膳のデザートには「花・トンボ蝶を形づくったお菓子、ヨウカン」などが見られ、家光公の舌をうならせた。その当代きっての食通ぶりは将軍・諸大名をはじめ世間の注目の的であった』…私は政宗公になりたい。
土井晩翠像と荒城の月句碑。
土井晩翠。
『晩翠は本名を林吉といい明治4年(1871年)仙台市北鍛冶町の質商土井七郎兵衛の長男として生まれた。明治11年、培根小学校(今の木町小学校)に入り、のち立町小学校に転校、仙台英語学校、旧制第二高等学校を経て明治30年東京帝国大学英文科を卒業、明治33年母校二高の教授として帰仙した。その間、31年に不朽の名作「荒城の月」を作詩発表、続いて第一詩集「天地有情」を処女出版した。島崎藤村の「若菜集」におくれること2年の明治32年、晩翠の28才から29才にかけての頃であった。のち6つの詩集や数多くの随筆など出版した。昭和22年日本芸術院会員、24年仙台市名誉市民に推され翌25年、文化勲章を受章され昭和27年10月19日、仙台市本荒町の晩翠草堂で情熱の詩人としての81年の生涯を閉じられた。この碑は昭和27年、晩翠会等によって建てられたものです。「春高楼の花の宴 めぐる盃影さして 千代の松が枝わけいでし むかしの光いまいづこ 秋陣営の霜の色 鳴きゆく雁の数見せて 植うるつるぎに照りそいし むかしの光いまいづこ いま荒城の夜半の月 変らぬ光たがためぞ 垣に残るはただかづら 松に歌ふはただ嵐 天上影は変らねど 栄枯は移る世の姿 写さんとてか今もなほ ああ荒城の夜半の月』。
荒城の月。
懸造跡。
仙台市内が見渡せる高台にあります。
素晴らしい眺望。
パノラマ撮影してみました。
明治元年現状仙台城市之図。
写真では飽きるほど見ている伊達政宗騎馬像。
本物をようやく見れました。
梵天丸もかくありたい!
伊達政宗公前には狛犬が一対。
帰りは歩いて青葉山を一周して帰りました…。
想像以上の距離で後悔しました。
天然記念物青葉山…『青葉山は大部分がモミ林とアカマツ林でおおわれている。ここは仙台城跡背後の御裏林とよばれた丘陵の一部で、築城以来みだりに人手が加えられなかった。そのため林の保存は大変よく、表日本の暖帯林と温帯林との接触地帯の自然状態をよく示している。特にここのモミ林は北限地帯のもので学術上貴重である。また、アカガシ、イイギリなどの暖地性植物も多く、ヒメノヤガラ、ムヨウランなどの腐生植物の稀品にも富む。いままでの調査によれば、高等植物666種、コケ植物137種が野生する。また、リスなどが現在でもみられる。特に、鳥類は豊富で現在までに73種が記録されている。そのうち、燕雀類が50種を占め、ヒヨドリ、ウグイス、シジュウカラなどは四季を通して生活している。キジが多く随時林内でみることができるほか、チョウゲンボウ、ヤマセミなど注目すべき種類も多い。このような自然林が残存していることは学術上価値が高い。昭和48年3月31日。』
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