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八幡宮です。『浅虫・久栗坂・野内の民俗』には川上神社の末社として紹介されていました。
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高架下を通る参道。
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享保13年に野呂冶五右衛門が根井村の田屋を新田開墾の際に勧請したと伝えますが、貞享4年検地水帳によりますと、八幡社地がみえますので、それ以前の創建とも考えられます。八幡様の管理はゴロスケ(野宮隆家※昔の関所の場所であり、床家のような大きな家があり、ノミヤとかゴロスケと呼ばれるそうです)でずっと行っています。『浅虫・久栗坂・野内の民俗』によりますと、春と秋の都合のよい日にイタコ・カミサマを呼んで世の中占いを行うとあり、オシラサマが納められているそうです。これは御不動様川上神社、浅虫の稲荷神社でも同様のようです。
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社号標は昭和4年のものですが、狛犬や灯籠は平成の紀年銘で新しいものでした。境内も綺麗です。かつては境内東西2間ずつ・南2間・北3間、本社2尺4面、神楽殿表口2間、裏行柾葺、南向1宇とあり、年数を経るにしたがって退廃したそう。
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小さい御神馬。
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八幡宮の向かいには根井村発祥の地の標柱がありました。
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根井川です。『青森の伝説』に次のような記述があります。
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『根井川には、昔サケがたくさん上って来た。あるとき、ひとりの旅僧が村にやって来た。ちょうどサケが豊漁だったので、川守りがサケを一尾、その旅僧に与えた。仏に仕える身だから魚はいらぬと旅僧は断わったが、むりやりに与えた。川を渡ってから旅僧は、「それほどいらぬサケならば、今後この川にサケが上らぬようにしてやろう」といって、川原の石をたもとに入れて持ち帰った。それからこの川は、魚住まぬ川になったという。』
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若干…嫌がらせ的な旅僧です(笑)
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