平川市館山字板橋。県道41号線沿いにある身代地蔵尊から少し入った場所にあります。部落の北はずれに鎮座しており、杉やケヤキの大木に囲まれた丁字形の境内です。この場所は昔は守山という小高い台地であり、天正4年正月元日に大浦為信が第二次大光寺攻撃の際に本陣を構えたところであり、軍師の沼田面松斉が「守山に登りて見れば、白たいのしけゆき消えてをつる滝本」と和歌を詠んで勝利を為信に奉ったという場所。※社号標「神明宮」(明治36年旧9月16日、産神講中)
御祭神は天照皇太神。例祭日旧6月16日。参道には石造四脚大鳥居、今井孝雄奉納の石造鳥居(昭和9年6月16日)、今井春一が32歳を記念に奉納した直径20cmほどの朱塗鉄板鳥居、日支事変勃発満一周季記念奉納の朱塗木造四脚鳥居の五基。石灯籠一対(明治19年6月16日、今井西太郎他12名奉献)。境内が一段高くなり、四段ほどの階段を上ると石塀(明治45年6月16日、古川丑之助建立)で仕切られ、参道は斜めにはしり、両側に古川喜之助他13名奉納の御神灯一対と石造鳥居が並び、その右側に小さな祠と石鳥居建設紀念碑(明治39年3月16日、出征軍人・対馬清太郎他27名)があり、その横に厩舎、その前に本殿建築寄附人名碑(明治28年旧5月4日、今井藤右エ門他47名)と御神馬(昭和16年旧6月16日、対馬粕太郎、初老記念)、その前に狛犬一対(大正11年7月16日、今井福太郎・今井伝五郎他奉献)。いちいの木の下に手水鉢(明治28年6月、対馬山三郎・今井弥之助・対馬佐右門ほか)
龍の石柱がかっこいい。
一つは狛犬っぽい顔にも見えます。
さて、貞享4年検地水帳によりますと、観音堂地1畝余があります。古来観音堂として信仰されていた神明宮は、西隣の松館村と松崎村との共同の産土神として祀られ、天文年間(1532-1555)までは守山神明宮と呼ばれていたそう。貞享4年検知水帳にも村中抱えの観音堂地一畝一八歩が記されています。津軽一統志には「守山の儀不詳大光寺近所に館山と云所あり、是を其頃守山と名付るか」とあり、守山を館山とする説もあります。
宝永2年の神社調には元禄3年(1690)の建立とあり、上記の観音堂も合祀しましたが、明治初年の神仏分離に際して観音堂は廃され、明治4年に神明宮に改称し、明治20年には共同氏子だった松館村側から分離して独立の神明宮を建立。
大光寺史によりますと『口碑伝説によれば、約四百二十年前項の天文年中まで「守山神明宮」で、その後二十年ばかりして同村対馬三左衛門の内神「観音宮」をも合祭して氏子の信仰を集めたとあるが、史料では宝永二年神社調に「神主長利弁太夫 境内東西五間南北六間 同堂地二間四方 同堂東向三尺五寸四面 元禄三年在建立」とある。また、その以前貞享検地帳にも「観音堂地、一畝十八歩、堂有、村中抱」とみえている。明治維新と共に神仏混淆禁止の令によって合祀してきた観音堂が廃止され、明治四年三月十七日社号を「神明宮」と改めた。明治八年五月五日、陸奥国第二大区八小区館山村の神社として天照皇太神を奉斎鎮座した。同二十八年五月四日、大鰐村玉川長吉の設計で現在の流れ造本殿(六尺四面)を造営。同三十六年六月十六日、石の大鳥居を村中産神講より奉納。大正六年三月十三日、境内板橋六番、七番地面積一反二十七歩あり有格社として村社の指定をうけたので、翌七年現在の拝殿(三間×三間)を造営、昭和二十七年七月三十一日、宗教法人令の認証をうけた。』とあります。南津軽郡是によりますと、『村社 神明宮 天照皇太神 七月十日 南津軽郡大光寺村大字館山字板橋 由緒 天文年中守山神明宮トシテ勧請』とあります。
狛犬一対。
社殿は南向きで、本殿前(幣殿横)にも狛犬二対(明治44年6月15日、今井喜之助奉納。明治27年9月16日、今井藤右エ門他2人奉納)があります。
ここにはかつて御神馬がいたのでしょう。
石灯籠と本殿建築寄附人名碑。
手水鉢。
巨木だったであろう切り株。
末社。
この神明宮の地は天正4年(1576)に大浦為信が第二次大光寺城を攻める際に本陣を構えた松館跡の地(もしくは館山館)らしいのですが、遺構についてはよくわかりませんでした。なお、昭和42年に通称坊主屋敷と呼ばれる林檎園から、5612枚の中国銭が発掘され、最も新しいものでも約700年前で、曾我氏か安東氏時代のものと思われます。
御由緒略記…『舘山神明宮所在地を守山と明記してあり、大浦為信の旗揚げ当時には既に守山神明宮を本陣として、天正3年大浦勢正月元日第二次大光寺城を攻め、落城の際に大浦為信が本陣を構えて指揮したという史実から推して見ても古社であり、舘山松舘松崎三村の御産土神様として崇敬されています。松舘址』
【MEMO】すぐ近くの松館に神明宮がもう一社あります(以下の理由にて館山の神明宮ではなく、松館の神明宮と存在)。そちらの神明宮は明治20年に松館部落民と館山部落民が感情問題から離反し、松館部落が神社の独立を宣言し、当時の松館部落の大農対馬善助が宅地南側の屋敷苗代を埋め立てて二十二坪(字浅井七十六番三号地)を部落に寄付し建立(無格社)。萱葺の社殿(6坪)は御神体がないまま約45年ほど経過しましたが、昭和年間に須々田誠一郎村長時代に役場に設置されていた御祭神を貰い受けて奉遷。※大光寺史より…『当社は、館山神明宮より二百㍍ほど離れた部落入口にあり、道路から用水路沿いに作られた狭い畦道のような参道を百㍍ほど進むと田地と境内界の入口に朱塗の鳥居一基が建ち、およそ四間に六間ほどの境内地にかえでの大木が一本と、明治二十年六月十六日、対馬善助奉献の石灯籠一対と間口二間半、奥行二間のトタン板葺切妻屋根の社殿が南面して、ひっそりと建てられている。一見、部落内を通る道路から見ても、他の神社境内と違い樹林ではないので気がつきにくいところである。』
『松館神明宮 (平川市)』
再訪記事『館山神明宮 (平川市)』
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