
明治になって目鹿沢村の一部となる以前は赤茶村(明治11年から16年の間に合併)。ちなみに女鹿沢村の表記は目荒沢・目ヶ沢・女ヶ沢と様々でした。

創建不詳。文明年間(1469-1486)の勧請とも伝えます。

天和4年(1684)の村絵図や貞享4年検地水帳には稲荷宮や観音堂が見えます。

鎮守の稲荷神社は目鹿沢村とともに共同で祀られていました。元は飛龍宮であり享和4年目鹿沢村稲荷宮を合祀。

どういう経緯か知りませんが、完全に後ろを向いてしまった狛犬(笑)昭和10年4月奉納(資料では明治20年。明治20年が正しいかと)。




御祭神は宇賀霊命・奇稲田姫。

観音堂は享保年間頃より飛竜権現と称していました。

享和4年(1804)に十川村一本杉にあった稲荷宮を合祀しましたが、安政年間(1854-1860)の記録では旧稲荷宮境内が悪地であり、参詣困難であったためと伝えます。現在は当稲荷神社境内に旧境内より遷した石棒が数本残っています。

稲荷神社の縁起によりますと文明年間に浪岡北畠氏が祈願所として建立したとありますが、赤茶口街道の出城とみる説もあり、石棒はそれ以前から沼沢地祭壇の祭具とされます。明治初年の神仏分離で飛竜権現が稲荷神社と改称されました。


土地改良記念碑。

満州事変記念之碑(昭和10年8月30日)・日露戦役紀念碑(明治41年1月26日)。


庚申塔など。


神社向かいにあった廃墟。

程近い場所にあった墓所。

原水爆戦争禁止祈願之碑…「長慶天皇御聖骨霊前」とあります。

こちらは陸奥国皇霊廟之碑…「国家再建祈願日本最初之道場」、「日本獨立年浪岡城主裔北畠顕宣書」の字が見えます。

北畠公累代御分骨を中央に、坂本種一翁碑(北畠古城會役員玉松台再興盟主。蓬田村々長。元参議院議長。)、太上天皇寛成神儀、阿部文助翁(1839-1923。浪岡八幡宮祠官。長慶天皇陵伝承地を調査。初代浪岡村長。)など色々な碑が建立されていました。




そして可愛い狛犬が一つ。


浪岡町史より一部抜粋…『稲荷神社には稲荷大明神と稲田姫観音様の二柱が合祀されてある。この稲荷様は昔、赤茶集落南方の一本杉の所にお堂があってそこに祭られてあったものだという。その一本杉の所は角塔婆ともいわれるところで、三反歩位の広さがあって茅が生えていた。今は水田になっているが、その付近は昔、赤茶のもとの集落であった佐野村の跡地だといわれている。一本杉は今の道から20m位水田の中に入った所に生えていて、昭和50年(1975)頃まで残っていた。またこの集落の跡地は戦後も残っていたが、昭和39年頃に耕地整理で田んぼになってしまった。その辺は稲荷様が祭られてあったが、狐もすんでいたといわれている。8月15日の猿賀様(尾上町)へお参りに行った帰り、ここで狐にだまされて酒を飲んでいた人もいたそうである。(「稲荷様と馬頭観音」)現在、稲荷神社の正面に大きな拝殿が建っているが、それは稲荷様が鎮座している所である。その向かって左隣にお堂があるが、祭られているのが馬頭観音である。この社地に隣接した屋敷に住む成田りつ(大正12年生れ)は次のように語ってくれた。昔、ここの稲荷様は一本杉という所に祭ってあった。ところが集落から遠くて不便であったので、いつの頃か現在地に移したのだという。この土地はもともと馬頭観音の社地であったが、稲荷様が移って来たので同じ社殿に合祀されるようになった。ところがシラカミ様のお告げで、馬頭観音が位の高い稲荷様とは別棟の社に住みたいといったという。それで隣にお堂を造って馬頭観音を祭るようになった。祭日は元来、馬頭観音の屋敷であったということにちなんで、観音様の祭日である春四月十七日、夏八月十七日、秋十一月十七日の三回になっている。この辺の事情を裏づけるものとして最勝院の「神社微細社由緒調書上帳」に次のように記載されてある。「稲荷宮一宇 一 堂社 板造 建坪 弐尺三寸四面 右稲荷宮之儀は境内悪地ニて参詣通路難儀ニ付き村中相談之上享和四年八月赤茶村飛龍宮境内へ合社ニ仕候 右堂社目鹿沢赤茶両村中ニて再建 飛龍宮一宇 一 堂社 板造 建坪 四尺四面 一雨覆 芦萱葺 建坪 東西三間半 南北三間 一神楽殿 野萱葺 東西三間半 南北三間 右堂社並雨覆共目鹿沢赤茶両村ニて再建(中略)稲荷宮飛龍宮両社」この調書上帳と地元の人の話を照合してみると、稲荷様が飛龍宮の境内に移って相殿となった裏づけを読みとることができる。ただ現在祭っている馬頭観音が昔の飛龍宮に比定されるものか、いつの頃に入れ替わりがあったのか今後への課題が残された形になった。ところが、このことについて馬頭観音のお堂を造ったという大工成田茂蔵(昭和2年生れ)が注目される内容の話を教えてくれた。現在、馬頭観音のお堂が建てられてある場所に十和田様の池と称された溜池があったという。そこは元旦の裸参りの時に若者たちが水垢離をとった所であり、傍に何かが建てられてあったということである。現在はその池は埋められて少しくぼみになって残っている。また、水垢離をとっている様子は、成田茂蔵が子どもの頃のことであるというが、「十和田信仰」(小館衷三著昭和51年刊)にも次のように載っている。「赤茶の稲荷社の相殿に闇龗神(水の神)が祀られ、昔、小池があったという。その後、稲荷講中のバサマたちが大工成田繁蔵に頼んで、現在のお堂を30年位前に造ってもらったということである。ただそれがどうして馬頭観音になっているのかはわからないという。またお堂の中にはご神体らしいものは見当たらないということである。享和4年に稲荷様が飛龍宮の境内に移って相殿となってからいろいろな変遷があって、馬頭観音が小祠を構えて祭りの中心となり、祭日も17日となっている現状を考えると、民間信仰の本質をみる思いがする。」』
墓所の再訪記事:『旧薬王院墓地 (浪岡)』
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