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築土神社。
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御祭神は天津彦火邇々杵尊。
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相殿として平将門公・菅原道真公(末社木津川天満宮より配祀)を祀ります。
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千代田区指定文化財の狛犬一対。
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安永9年(1780)に元飯田町の氏子により奉納されたもので、千代田区内の現存狛犬では最も古いもの。頭上には角と宝珠が付いています。
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『本狛犬は、台座部分もあわせると高さ1.5mほどになる一対の石像です。左右の像とも本殿から見た面に「元飯田町」「惣氏子中」「安永九庚子十一月」との銘文が刻まれています。元飯田町というのは、現在の富士見1丁目および九段北1丁目あたりのことです。天正18年(1590)の徳川家康の関東入国ころより、中坂や九段坂の坂下一帯を飯田町と称していましたが、元禄10年(1697)の火災で町が築地に移されて南飯田町となった際に、九段中坂一帯に残った町地を元飯田町と呼ぶようになりました。社伝によれば筑土神社は、天慶3年(940)平将門の霊を武蔵国豊島郡上平川に祀り津久土明神と称したことにはじまり、その後飯田町に近い田安に遷座して田安明神と称しました。元和2年(1616)には牛込門外の筑土山(現新宿区筑土八幡町2番地)に遷座して筑土明神となり、途中明治7年(1874)には筑土神社と改称しましたが、以来昭和初期まで牛込に鎮座し続けました。しかし昭和20年(1945)空襲で社殿などを悉く焼失し、29年には九段中坂の世継稲荷神社境内、すなわち田安明神の旧地に近い現在地に遷座しました。元飯田町の住人が本件狛犬を奉納した安永9年(1780)には、筑土神社は彼等の居住地から少し離れた場所にありました。下飯田町の住人は、自分たちの信仰の対象である神社が牛込に遷座したあとも変わらぬ信仰を続け、いわばその証として本資料を奉納したのだともいえます。また、本件狛犬の一方の頭上には「角」が、また他方の頭上には「宝珠」がのせられています。これは厳密な意味で前者を「狛犬」、後者を「獅子」と意識して区別したことの表れであると思われます。区内の寺社などに現存する最古の狛犬であるこの筑土神社の狛犬は、私たちに筑土神社の江戸時代の信仰の広がりを伝え、かつて千代田区域に居住していた人々の暮らしと信仰の様子を語りかけつつ、九段の一隅に佇んでいます。』
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手水舎。
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築土神社は天慶3年(940)6月、平将門公の首を首桶に納めて持ち去り、上平川村津久戸の観音堂に祀って津久戸明神と称し創建されました。
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文明10年(1478)、太田道灌が江戸城の北西に社殿を造営し、太田家の守護神・江戸城の鎮守神として崇敬。天文21年(1552)に田安郷に移転し、田安明神と称し、江戸三社の一つに数えられたこともありました。
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その後、天正17年(1589)に下田安牛込見附米倉屋敷跡、元和2年(1616)に新宿区筑土八幡町に移転して築土明神に改称。
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明治7年、天津彦火邇々杵尊を歓請して築土神社へ改称。昭和20年、戦災により全焼し、翌年千代田区富士見へ移転し、更に昭和29年、九段中学校建設のために世継稲荷神社敷地内(現在地)に移転。
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社務所。
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社務所・参集殿の横を奥へと進むと世継稲荷神社があります。
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御祭神は倉稲魂神。
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嘉吉元年(1441)飯田町に創建された稲荷神社で、この辺一帯を田安郷と呼んだことから田安稲荷と称されていました。
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天正18年(1590)2代将軍徳川秀忠公が参詣した際、橙の木があるのを見て「代々世を継ぎ栄える宮」と称賛したことから世継稲荷と称されるようになったと伝えます。
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元禄10年(1697)の大火で被害を受け翌年に再建した頃より、地域町人の守護神になっていきました。享保15年(1730)以降、田安家の鎮守神としても崇拝。
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文久2年(1862)には14代将軍徳川家茂公の正室である和宮が子宝を願い参詣。現代も子宝や後継者を願う人々に信仰されています。
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かつての社殿は壮麗で、その天井には光琳派の花鳥絵をはじめ日本画の大家椿椿山の筆による雲龍が描かれ江戸名所の一つに数えられていましたが、戦災により社殿社宝等全焼しております。
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力石と天水桶。
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天水桶は文政元年(1818)元飯田町氏子により奉納。将門公の繋馬」が彫刻されています。
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力石。
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『力石とは、一定重量の大小の円形または楕円形の石で、村の鎮守、神社境内、会 所や村境(今日の行政単位の村ではない)にあって、若者達が力試しに用いたと記録されている。古来、わが国民間信仰では石に係わる信仰は多い。石に神霊がこもる、あるいは石を依代としている神々も多い。また、力石に於ける伝承の一つとして、道切説もあるが、「巨人伝説の大草鞋」同様と考えられる。しかしこれらは、石神等に関する伝承の変化であって、昔は、村々に疫病の侵入を防ぐための神であり、呪い等であったようである(疫病は道を伝って来ると信じられていた)。境内にある力石の由来は詳らかではないが江戸・東京の若者達の生活と娯楽の一端を知るうえで貴重な資料である。なお力石に刻まれている「元飯田町」とは、中坂を南北にはさんだ現九段北1丁目にあたり、江戸時代からの町名である。』
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山本社司の碑。山本岸太郎は東京大空襲の際に、激しく燃える世継稲荷へ飛び込み、その後遺体で発見された時、その腕には世継稲荷の御神体が抱えられていたそうです。昭和29年に社殿は再建され、昭和30年に総理大臣鳩山一郎協賛のもと慰霊碑が建立されました。『山本社司之碑 昭和二十年三月十日 戦災に御神体を抱持し此の地に歿す 十年祭に建立 世継稲荷講 総理大臣鳩山一郎書』。
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