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大崎八幡宮の参道沿いの大石段手前に鎮座。
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狛犬一対。
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ユニークなスタイル。
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詳細な由緒等はわかりませんが、大日如来堂のみがあります。延宝7年(1679)開山で、天明年間(1781-89)に廃絶するもその後復興。
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平成20年10月に火災で焼失するも翌年再建。
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小牛田を刻む山神の他、大日如来堂の横にはたくさんの石碑・地蔵等がありました。
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大日堂の横を四ツ谷堀が流れています。
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旧四ツ谷用水…『伊達政宗が開いた城下町仙台は、広瀬川や数多くの湧水などがあるものの、5~6万人を前後する人口を満たす水利には恵まれていなかった。これを解決するため計画されたのが四ツ谷用水である。着工や拡張の経過に関する詳細は不明であるが、北上川改修などで名高い土木技術者、川村孫兵衛重吉(1574-1648)が築造にあたったといわれ、藩政時代の早い時期から着工されたとみられる。下図のように広瀬川上流の郷六(四ツ谷堰)から取水して八幡、北六番丁を経て梅田川に注ぐ水路が延長7,260mの本流で、そこから何本もの支流や更にその分流へと広がり、市内の要所を縦横に貫流していた。城下住民の生活用水、防火用水、下水路、そして水下各村の水田耕作など多目的に利用され、藩と町方と農民が1/3づつを負担して維持にあたった。明治維新後は適切な維持管理が行われなくなり、都市の近代化とつりあわなくなって序々に都市活動との関りが薄れ、次々に埋立や暗渠化が進んだ。しかしこれにかわって始まった下水道の整備は、四ツ谷用水の存在が礎となった。現在、水路として生きているのは本流のほか極く一部分で、本流も仙塩工業用水道となり水流を見ることはできないが、八幡5丁目~柏木2丁目間付近では古い石積みも残り、往時の姿をしのぶことができる。』
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四ツ谷用水路整備イメージ図。
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『ここ大崎八幡宮の太鼓橋直下を流れていた旧四ツ谷用水は、藩政時代から昭和にかけて仙台市内に網の目のように配置され、生活用水、防火用水等に利用され、水の豊富な街並みを形成し「水と杜の都仙臺」を支えていたものです。しかしながら、急速な都市化の発展により、そのほとんどは暗渠化が図られ、かつての「水と杜の都」を形成していた水環境はなくなりました。このことから、今後の仙台圏域の水環境のあり方について、地域の方々と共に、環境・防災等の面から調査・研究を重ねた結果、地域の良好な水環境づくりのために、かつて旧四ツ谷用水が流れていた、ここ大崎八幡宮の入り口太鼓橋地点に、左図のような「四ツ谷用水路」を整備することを提案するために、そのイメージ図を掲示することとしたものです。』…何か…大日堂の火事は皮肉ですね…。仙台で旧四ツ谷用水の名残り探しっていうのも面白いかもー。
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関山越え最上街道・奥州街道と彫られた石碑。
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作並街道…『関山越え最上街道(作並街道)は、仙台城下から愛子、作並を経て、関山峠を越え山形に至る道で、峠道は狭く険阻なため、二口街道、笹谷街道と連結して利用されました。奥州街道は、一般に江戸(東京)から弘前藩三厩(青森県)までの総称で、国内最長の道でした。県内での道筋は、ほぼ国道4号線と一致します。』
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