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野内の貴船神社付近の三叉路に番所跡がありました。
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野内村ははやくより海上・陸上の交通の要衝であり、藩からも重要視されていました。奥州街道沿いには町場が形成され、町奉行が置かれました。番所が町奉行所を兼ねており、御国中道程之図によりますと、集落東端、滝ノ口川(貴船川)左岸に街道を挟んで御番所と采女様(黒石津軽氏)御番所が見えます。明暦2年に平内地方が黒石津軽氏領となったため、番所も本藩と分家黒石津軽氏の両方で設けたものと考えられます。
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藩から野内番所に配置された役人は、町奉行2人をはじめ、勤番目付1人、町同心警固(はじめ足軽警固)1人、町同心(はじめ足軽)5人、町年寄2人。町奉行は御馬廻番頭下格で1人ずつ4ヶ月交替、勤番目付は足軽目付で同じく4ヶ月交替、町同心警固・町同心・町年寄は常住者。江戸後期には海岸防備の必要性が高まり、文化8年には野内町奉行所御武器として、番鎗10本・鉄砲10挺・竹火縄10曲などが備えられています。
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案内板より…『野内番所は、盛岡(南部)藩に対する番所として、秋田藩に対する碇ヶ関、大間越とともに津軽三関と呼ばれたところである。成立の年代は元和年間といわれているが、はっきりしていない。貞享4年の野内村検地帳に「屋敷、弐拾四間・弐拾間 壱反四畝拾弐歩 御番所」「采女様屋敷、弐拾八間・弐拾間 壱反八畝弐拾歩 御番所」と記録されている。このことは弘前、黒石の両津軽家で警固していたということである。通行者数は、時代や季節によって多少はあるが、藩庁への報告書によると享保2年(1717)から同6年までの月平均片道通行者数は100人程度であった。天明8年(1788)8月24日に、この地を歩んだ古川古松軒は、その書「東遊雑記」に「青森より東二里 野内村といふ所に津軽候の関所ありて往来の人を改むる」と記している。』
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野内枡方跡の松並木です。マスガタの松と呼ばれています。
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ここにはかつて枡方があり、大阪の商人金屋金四郎がこの辺りの木材を伐り出して船積みし、大坂で商っていたという記録があるそうです。
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蝦夷地の漁場への出稼ぎも江戸時代から多く、津軽海峡を船が行き来していました。
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