野内鷲尾山腹に鎮座。
貞享4年検地水帳によりますと、貴布禰社地・境内山があります。
草創は大同2年(807)坂上田村麿の勧請。 文治5年(1189)源義経が平泉衣川の戦いの後、蝦夷地(北海道)に渡る途中に滞留し海上安全を祈願。
社殿前の案内板…『御祭神は高オガミ命。社伝によると大同2年(807)坂上田村麻呂の創建という。また、文治5年(1189)平泉衣川の戦いに敗れた源義経が蝦夷地へ落ちのびる時に、この地で海上安全を祈願したという。一説には義経がこの際勧請したとも伝えられるなど、数々の義経伝説がのこっている。慶長年間までは小さなほこらだったが、慶安2年野内村の庄屋蝦名万助と村民によって再建された。元禄9年、4代藩主津軽信政は郡内4社の1つに貴船神社を選び、農業神として五穀豊饒、風雨順調を祈願した。同じ御祭神を祀る京都の貴船神社・吉野の川上神社は、朝廷の祈晴祈雨の神として古代から崇敬され、その影響は全国に及ぶ。菅江真澄の「外ヶ浜つたひ」や、古川古松軒の「東遊雑記」などにも記述されている由緒のある神社の一つである。』
社殿前の由緒…『わが國は神のすゑなり神祭る昔の手ぶり忘るなよゆめ明治天皇曾て北日本を國見し玉ひし時前後二回當村に御駐輦の榮を賜はり山色水聲今猶ほ皇恩の渥きに感泣す茲に天皇の神祇に關する御製を掲げて先づ恭しく聖徳の一端を仰ぐ者也謹て當社の社傳を按ずるに山城國愛宕郡官幣中社貴船神社と其祭神を同じうし伊弉諾命の御子高おかみの神申し國初以來靈徳功業眞とに炳焉たり是を以て文武天皇以降歴代朝廷の尊崇頗る篤く旱霧雨水必ず此神を祭り祈る毎に効驗ありと云ふ大同二年坂上田村麿公創めて斯地に勸請し文治五年源義經卿衣川戰後北海渡航の途次當村に淹留し崇敬特に深く其舊跡鷲尾川を始め歴々境内付近に存す降て元録九年津軽信政公領内四社の随一と定め更に祭祀の實を擧て年次五穀の豊饒を祈願し神威靈徳今に於て益々地方に顯つる不肖定衛累代祠官として社頭に奉仕し村民と共に日夕神威の發揚を念とす今次畏くも皇太子殿下御結婚の大典を擧らるるに際し偶ま氏子有志の間に記念建碑の議在り聖徳の萬一に副はんが爲め先づ神社敬拜の至誠を表するは極めて機宜を得たりとなし謹て祭神御事歴の一班を勒し奉りて江湖の參拜者に栞せと云爾 貴船神社奉仕十二代目社掌柿崎定衛謹誌』
社殿前の狛犬一対。
猿田彦大神は雨の前になると濡れてくるという伝説があります。
保食神(寛政9年)。
英霊碑(昭和36年)と貴舩神社拜殿改築記念碑(昭和15年)。
社殿前の広場。かつての境内には細葉の羅漢松の古木があり、大変有名だったそうですが現存しません。
広場の奥に小道があり、山頂へと歩いて行けます。
途中の景色。
山頂。
浄瑠璃姫の墓が残っていたと伝える鷲尾山々頂には鷲尾園という公園跡とその石柱(大正4年11月10日)が残っています。
文字字体は風化されずにしっかりしているので、頑張れば読み取れそうです。書いている内容も大体わかりました(ほぼ上記の由緒に近い内容)。
見えるかな…?
貴船神社の末社には元禄14年再建で弘化3年廃社の後(元禄14年8月・弘化3年7月の棟札あり)に漁事繁栄のために再び再建された弁天宮・由緒不明で天明年間に堂宇が大破し、願主もなく、自然廃宮した神明宮・往古より存在するも建立年代不詳で、棟方角右衛門、中畑半右衛門、甲斐森治部等によって再建された後に自然廃宮となった惣染宮があります。こちらはその弁天宮。
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