イメージ 1
あっ!2階のテラスに神社があるっ!都会らしい。そういえば去年だったかな?境内に高層マンションを建てるニュースを見ました。都会は色々と大変なんでしょうけど、ちょっと悲しいニュースでもありました。
イメージ 2
さて、幸徳稲荷神社の紹介。
イメージ 3
イメージ 4
『当稲荷神社は旧幕時代、山城の国淀の城主(現在京都府 伏見区淀町-十万二千石)稲葉但後之守(三代将軍徳川家光の乳人 春日の局の後裔)の江戸小川丁中屋敷内に祀られてあったもので、当時は鍛冶屋稲荷と称し代々五穀豊穣・武運長久を祈願された由緒ある社と伝えられています。明治維新後は、この地に商家・町人移り住み、町の名も、小川町一番地となり町内の守護神として伏見稲荷神社より霊を勧進し、近隣氏子有志によって新しく社殿を建立。毎年5月14日・15日の両日修祓式を行い、神楽を奏し、祭典を施行して参りました。昭和21年、小川町北部町会が解散され、現在の四つの町会に分離した時、古老・総代は神社の廃絶を吝み相計り、幸徳稲荷神社奉信会を結成(氏子五百世帯)町会相互の連絡、親睦と一層崇敬を深めつつ現在に至って居ります。特に大東亜戦にも社殿は戦災をまぬがれ、戦后の町の復興再建に或は町会発足の基となって、私達を勇気づけ、励げまして今日に至って居ります。此度宗教法人となりましたのを機会に、社殿並に社務所を新築し、子孫の守り神として存続するものであります。昭和43年4月25日 宗教法人 幸徳稲荷神社』
イメージ 5
「新撰東京名所図会」第二十一編神田区之部下巻二より…『鍛冶屋稲荷は、小川町一番地にあり、旧稲葉美濃守屋敷内に勧請せられたる鎮守の稲荷なるが、維新後に及びて、同邸は引き払われ、三田に移転したるが、稲荷社のみは此地に残留りと。社頭石の鳥居あり、左柱に文化四年丁卯年二月初午、右柱に慶応三卯年二月再建の銘あり。また元禄十四年奉納の石盥水盤あり。土を盛りて一段高き処に小祠あり、喜連格子の内、神鏡一面、幣束の風にゆらぎて、神体は厨子の内にあり。毎年四月九日十日の両日祭典を執行せり、昔は豊玉稲荷般若院の社僧を聘し、祭典を営みしといふ。嘗て辻村清平と称する刀剣鍛冶師ありて、名刀一口を奉納したりと、其子孫連綿たりしが、今はいかがなりしや、又年々鞴祭を執行ひ甚だ賑はえりと。』
イメージ 6
イメージ 7
小さいながらも由緒ある神社でした。ちなみにこの建物は幸徳稲荷会館というそうです。
イメージ 8
小川町北部二丁目町会のホームページに詳細があります。
イメージ 9
ホームページの写真によりますと、現在とは違って普通に社地があり、当初お社は南を向いており、震災後に一度西向きになり、昭和43年の幸徳稲荷会館建設に伴い二階に移されて再び南向きになったそうです。
イメージ 10
イメージ 3
イメージ 2