「天台宗東北大本山 関山 中尊寺」(岩手県西磐井郡平泉町)。所謂「平泉 中尊寺」の紹介です。有名過ぎるのでざっと紹介。全部は紹介できません。詳細はHP等で読んでください。
表参道の月見坂。両脇には江戸時代に伊達藩によって植樹された樹齢約300年の老杉があります。
この坂が結構きつい。
中尊寺にはかれこれ5回程訪れていますが年齢のせいでしょうかね…かつてはきついって思わなかったのに。
分岐。
月見坂八幡堂へ。
八幡堂。
八幡堂の由来…『やおよろずの神々のなかで、八幡神は最も早く仏教にとけ込み、八幡大菩薩と尊崇されてまいりました。祭神を応神天皇とする伝統的信仰から、皇室の祖神、国家の守護神として、ことに源氏の氏神として、八幡宮は諸国に造建され、広く信仰されてきました。天喜5年(1057)鎮守府将軍源頼義、義家、安倍氏追討のためこの地に至り、ここ月見坂で戦勝を祈願しました。いわゆる前九年の戦です。かくて、長い戦いを収め、勝利の祈念に京都石清水から迎えたのが鎌倉の八幡宮です(後、それを頼朝が鶴岡に移建)。鎌倉時代「吾妻鏡」のなかに「中尊寺年中恒例の法会」として「八月放生会」と見えます。これは8月15日の宇佐(九州)石清水、鶴岡など八幡宮における放生会の事例からも、当社八幡神前における法会厳修とみなされ、、以って当山におけるその神威の主要なることがうかがわれます。明治の神仏分離で、八幡堂と称し阿弥陀如来尊像も合祀庶人の熱心な御信仰をいただいております』。
先へ進みます。
弁慶堂へ。
弁慶堂。
弁慶堂由緒。
狛犬一対。
六道能化の金剛宝地蔵大菩薩。
御守護の雷神塔。
弁慶堂からの眺め。
地蔵堂。
臼田亜浪句碑…「夢の世の 春は寒かり 啼け閑古」。
こちらは達筆で読めず。
道祖神。
お次は薬師堂へ。
薬師堂。
薬師堂縁起…『この薬師堂は藤原清衡公が中尊寺境内に堂塔40余宇建立の一宇であった。その旧跡は現在の所ではなく、他に建立されたのであったが明暦3年(1657)に現在地に建立された。堂内には慈覚大師作と伝えられる薬師如来が安置され脇仏として日光菩薩、月光菩薩が安置されております。また薬師如来の分身または化身とも言われる十二神将が併置されているのは中尊寺山内の薬師堂としては当堂しかありません。薬師如来は別に薬師瑠璃光如来とも称し東方瑠璃光世界の教主でもあり、一切の衆生を病気疾患から守り、また人間の寿命を延ばして福徳を授けると伝えられております。有名な薬師如来の十二の大願の中に「一切の衆生を教化し除病、安産、息災、難苦あらゆる人間の苦悩を救い、また無明の宿病に対しては治癒の法薬を授く」と説かれており、薬師の功徳はまことに宏大無限と申さねばなりません。人々の心には現代においてもこの薬師如来を信仰することに依って病気の苦悩から免かれ索いては延命の法悦に浴することが出来るので、現在も変りなく信仰されているのであります。天台宗の宗祖伝教大師最澄も御熱心な薬師如来の信仰者でありましたし、比叡山根本中堂には伝教大師みずから彫刻されて御本尊といたしました。このようにして薬師如来の信仰は平安時代から一般庶民の日常生活には欠くことの出来ない御佛様として崇敬されております。阿弥陀如来は西方極楽浄土の世界にあって来世の果福をお守りになるのに対し薬師如来は東方瑠璃光世界に住して現世の人々に限りなき仏果を御授け下さるのであります。薬師如来の脇仏日光、月光菩薩は濁った世の中の衆生を教化する為、昼夜となく守護しているのであり、また薬師十二神将は四季を通じ休むことなく衆生をお守りしているのであります。この薬師信仰は東北地方に平安の昔から中尊寺を中心にさかんに行われました。特に眼病の人々には盲僧信仰として広く信仰されたのがこの薬師如来であり、この御堂であった。またこの御堂には、子安地蔵が安置されている。その由来は出産や育児のための信仰で、神道では木花咲耶媛を祭神としている神仏習合で、子安観音が祀られている。私どもは現在、喧噪と煩雑な社会にあって心身ともに不安な生活を送っております。災難、病苦から脱れて、平等な平和な生活が営まれたらどんなにか幸福でありましょう。そうした世界こそ御薬師様が願っておられる世界であり、また理想世界であります。』。
奥の細道展。暗くなってきたのでパスします。
観音堂。
中尊寺本堂。
中尊寺は嘉祥3年(850)、比叡山延暦寺の高僧慈覚大師円仁によって開かれ、その後、長治2年(1105)から奥州藤原氏初代清衡公が大規模な堂塔の造営に着手します(寺塔40余宇・禅坊300余宇)。
文治5年(1189)奥州藤原氏は滅亡し、鎌倉時代以降、大きな庇護者を失った中尊寺は次第に衰退し、建武4年(1337)の火災で多くの堂塔・宝物を焼失。戦国時代には更に荒廃が進むも、江戸時代には伊達藩領となり、歴代伊達公により中尊寺はあつく保護されます。
不動堂です。
御本尊の不動明王は1684年に仙台藩主伊達綱村公により天下泰平を祈願して新調されました。
峯薬師堂。
峯薬師堂境内。
松尾芭蕉句碑…「草臥れて 宿かる頃や 藤の花」。
蛙がいました。池に天然記念物のモリアオ蛙が生息しているそうです。
薬師堂由緒…『もと経塚山(金色堂の南方)の下にあったが、天正年間(1573年~1591年)に荒廃、のち元禄2年(1689年)現在の地に再建す。堂の面積は32.5坪、型式は桁行3間、梁行3間の瓦葺の単層宝形造りで、御本尊は丈6(約2.7米)の薬師如来の座像でカツラ材の寄せ木造り、金色に漆を塗り金箔をおいたもので、藤原末期の作で現在重要文化財として讃衡蔵に安置されている。現在の御堂は昭和57年の改築で、御本尊も薬師如来を中心に日光菩薩、月光菩薩の三尊とし、堂の改築を契機に昭和63年、前立本尊として仏師松尾秀麿師の謹刻になるものである。薬師如来は大医王仏とも言われ正式には薬師瑠璃光世界の教主である。除病安楽・息災難苦等を消滅させてくれる絶大な功徳をもっている御仏として古くから信仰されている。』。
目にご利益があります。
大日堂。
不動明王や千手観音もいました。
宝篋印塔。
鐘楼。
梵鐘について。
讃衡蔵です。撮影禁止です。見応えありますよ。
阿弥陀堂。大黒天や蔵王権現も安置。
福地直哉句碑…「眼にうれし 心に寒し 光堂」。
辯財天堂。
辯財天堂について…『本尊の辯財天十五童子は宝永2年(1705)、仙台藩主伊達綱村公正室仙姫の寄進、現堂宇は正徳6年(1716)に建立された。讃衡蔵に収蔵される国宝「金光明最勝王経金字宝塔曼荼羅図」十幀は、もとは仙姫寄進の厨子に納められ、この堂内に奉安されていた。辯財天は水と豊かな実りをつかさどるインド・サラスヴァティー河の女神で、仏教と共に日本に伝来した。8本の腕をもち、手には弓矢などを執るが、「金光明最勝王経」(大辯財天女品)の記述による。池や河川とともにまつられ、水流の美しい響きにちなんで「妙音天」とも称し、言葉や知識、音楽や芸能の神として信仰される。また15人の童子を使ってさまざまな利益ををもたらす福徳神である。福徳円満、子宝天授、安産、学業成就と祈願に応じて利益を授ける。辯財天のご真言…おん そらそばていえい そわか』。
横には千手観音・二十八部衆。
弁天池。
宮沢賢治詩碑。
いよいよ国宝中尊寺金色堂へ!!
中尊寺創建当初の建造物。天治元年(1124)、初代清衡公により上棟。須弥壇内には藤原清衡、基衡、秀衡のミイラ化した遺体と泰衡の首級が納められています。※写真は覆堂。
撮影禁止なので代わりに藤原の郷の金色堂の写真をどうぞ(笑)
中尊寺経蔵。
経蔵について。
芭蕉翁句碑…「五月雨の降り残してや光堂」。
昭和天皇御製歌碑…「みちのくの昔の力しのびつつまばゆきまでの金色堂に佇つ」。
関山天満宮。写真暗くてすいません。
関山天満宮由来記…『此の天満宮は菅原道真公の第14世孫、菅原為視公が勅命により奥州平泉へ下向逗留の時、出生した乙王丸(後の経蔵別当第12世、行栄和尚)に京都北野天満宮より勧請して授けた天満大自在天神の御真影と観世音菩薩をお祀りしています。又、此の霊地は昔、陸奥守頼清が衣の関を守護し世の平安を祈願するために鎮守府の弓矢を納めて天神地祇を祀り関の神社を造営した地でもある(以下省略菅原道真公御神徳にて省略)』。
芭蕉翁像並びに奥の細道句碑。
金色堂覆堂。
金色堂覆堂について。
大長寿院(西谷坊)。
嘉承2年(1107)、藤原清衡公創建。かつては大規模な阿弥陀堂でした。現在の本堂は文久3年(1863)再建で、本尊は大日如来。
釈迦堂。
白山神社へ。
能舞台の横に出てきました。
大変立派な神楽殿です。
鏡板に描かれた老松。
白山神社。
由緒…『仁明天皇の御代嘉祥3年(850)中尊寺の開祖である慈覚大師が加賀の白山をこの地に勧請し自らは、十一面観音を作って中尊寺の鎮守白山権現と号された。配佛としては、樋爪五郎李衡の持佛で運慶作の正観音と源義経の持佛で毘沙門天が配案されてありましたが、嘉永2年正月8日(1849)の火災で焼失した。現在ある能舞台は嘉永6年(1853)伊達藩主伊達慶邦朝臣から再建奉納されたものであります。(平成15年国の重要文化財指定)現行の能舞は、天正19年時の関白豊臣秀次と藩主伊達政宗両公が当社参拝の節観覧に供し以来続行今日に到っている。明治9年秋には、明治天皇が御東巡の折りに当社に御臨幸あらせられ、古式及び能舞を天覧あらせられました。』…立派な神楽殿なのも納得ですね。
白山神社社殿横へ。
十二支一代守護神社。
『十二支生まれ歳守護神社をお詣りし、日々の御安泰・諸願成就をお祈りし、守護大神さまは、誠の心を持ち、信仰する人をお守りし力を添え助けてくださいます。御家族みんなの分も受けましょう』。
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