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平成25年(2013)に行われた新鳥居の竣工式の際に、取り壊した古い鳥居から台輪に「明應4年(1495)」と記されているのが発見されました。その後の調査結果は未だにわかりませんが、神社の由緒に係る重要な発見です。
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御祭神は大國主神、経津主神、事代主神、天鈿女神、宇賀魂神、思兼神、高おかみ神。
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貞享4年検地水帳によりますと、尾上村の小字栄松には正太夫抱えの権現堂、観音堂地、庚申堂地があります。明治の神仏分離によって権現堂(獅子権現宮)は七柱神社になり、観音堂と庚申堂は廃棄。
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正保4年(1647)9月勧請。
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明治4年の神仏混淆仕分けの際に獅子権現宮を七柱神社と改めました。神社改正以前は猿賀神社の摂社。
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一説には『延暦12年(793)坂上田村麻呂大将軍が田道命の霊感を受けて賊将大丈丸を討つ事ができたので、その神恩に報いるため一社を建立した。深砂大権現(現猿賀神社)がこれである。その当時、去川派立(尾上村)へ一宇を勧請し武運長久を祈る。いわゆるこれが獅子権現宮である。爾来、猿賀神社の摂社となる。後に堂宇腐朽破損しているのを憂い、正保4年(1647)9月、氏田弥左衛門の邸内に勧請し、更に安永7年(1778)堂宇を現在地に移遷した』とも言われています。
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本殿。
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本殿横にある御神木のケヤキ。
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めっちゃでかいっ!!日本一のけやきの森と呼ぶのも頷けます。
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ケヤキの大木『七柱神社の境内には昔、「ケヤキ」の大木が繁り「ケヤキ」の森として親しまれたが、日露戦争のとき木造船に徴用され又過去の台風や老樹のため数本倒れ、本殿の右側の大木は「ご神木」となっていて、他に三本の巨木があり他には例をみない。推定樹令400年から500年』
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説明にもあるように他にも巨木があります。
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末社と庚申塔。
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こちらはすぐ近くにある真宗大谷派 善應寺です。高木村との境にあり、明和元年(安永8年とも)尾上村の内山安右エ門氏の次男である善正が、弘前真教寺、黒石感随寺の許可を得て道場を開き、浄土真宗感随寺末の尾上山善正寺(現住所は平川市高木)を開基。2代目住職感随寺智林和尚三男慈海。嘉永元年の火災により山門以外を焼失し、翌年現在地に移転(山門はそのまま移築)。明治3年に善應寺(善応寺)と改称しています。昭和55年本堂再建新築、平成11年山門再建新築。
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有形文化財阿弥陀如来立像画幅標柱。
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『善応寺の寺宝である阿弥陀如来立像画幅は、延文二年(1357)(中略:写真の撮り方が悪くて見えず…すいません。)禄青や珊瑚などを用いて後光は金泥で描かれている。当時と(中略)画幅としての仏画では尾上町最古のものであると考えられる。(中略)「善応寺内仏由来旧記」に記されている。』
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有形文化財書跡比叡山回峯行発願文壱幅標柱。
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『明治27年5月、正井観順が出家して十六谷に回峯行三千日を発願したが二千五百五十日で五十一歳の生涯を終えた。此の発願文は二千日回峯達成し、観順満四十八歳の時の揮毫である。』
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更に善正寺のすぐ西隣には天台宗猿賀山神宮寺末庵の「朝日山 浄土寺」があります。
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かつては浄土庵と称し、貞享年間に権西の初住と伝わります。明治9年(もしくは11年)に寺格を得て浄土寺となります。
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