イメージ 1
下田町(江戸期・下田村)に位置します。御祭神は足仲彦尊(第14代仲哀天皇)。
社寺調書(明治28年7月上北郡下田村7月15日収受第1202号)より…『一、青森県上北郡陸奥国下田村小字木ノ下。二、郷社 気比神社。三、祭神 足仲彦命。四、創立 当社ハ文明九年創立ナレドモ古昔ヨリ伝来ノ記録ナキヲ以テ由緒不明ナリ。五、建築 拝殿間口六間奥行四間坪数二十四坪幣殿間弐間奥行弐間坪数四坪廊下間口壱間奥行壱間半坪数壱坪半 本社七尺四方。六、境内地 社地反別七反七畝拾九歩 境域ハ上地林民有宅地或ハ畑地ニシテ平地ナリ。七、絵図面 右之通ニ御座候也 明治二十八年七月十五日上北郡下田村郷社気比神社々司田中勝孝(※絵図面省略)』
イメージ 2
文明9年(1477)に木ノ下の農民松林喜蔵が福井県敦賀市にある氣比神社より足仲彦尊(第14代仲哀天皇)を祭神として賜り、無病息災、五穀豊穣、家畜安全を願い勧請したと言われます。7月の第1土・日曜の例大祭には絵馬の店が並び、家畜安全、無病息災等を願う板絵馬や紙絵馬が売られます。
イメージ 3
イメージ 4
国誌によると、江戸期に木崎野馬護神・木下蒼前堂・馬頭観音堂などと呼ばれ、藩営の木崎野牧の馬護神として祀られ、馬を飼う者は遠くからも参拝したと言われています。
イメージ 5
イメージ 6
案内版より。
由緒…『人皇82代 後鳥羽天皇の御代、源頼朝が奥州征伐の時、陸奥国に廣々とした馬の生産地が開けているのに著眼。政策の中心 牧場経営のため、加賀美次郎遠光の三男 南部三郎光行を派遣し南部馬を生産、地方民にも馬の生産奨励。爾来、馬の生産盛んになり、地方民の無病息災・延命長寿・五穀豊穣・大漁成就・家畜安全等を願い、建久2年甲斐国の加賀美次郎遠光をして、越前国一之宮で北陸道総鎮守として名高い氣比神宮の御祭神 足仲彦尊を賜り、この郷に勧請す。古来、地方民の崇敬篤き古社にて、毎年神賑祭日は南部地方はもとより他地方より多くの参詣者あり。』
御神徳…『氣比は笥飼と稱へ、食物を司り家畜を養う神。夙に農業・漁業・家畜に對する御神徳著しく、古来、五穀豊穣・航海安全・大漁成就・家畜安全祈願が行われ、現に農・漁・家畜農家の崇拝極めて篤い無病息災・延命長寿の神なり。』
イメージ 7
欅そうぜん神。
イメージ 8
漢字はこれ。
イメージ 9
由緒…『古代のものと推定される、大人十人程で抱えた欅の神木があり、人々は「おそうぜんさまの欅」と呼び、当神社象徴の巨木であった。大昔より暴風雨に耐えて来たこの古木も、度々の台風で太い大きな枝が折れ落下すること再三、幹には大きな割れ目が入り虫が住みつき小鳥が巣を作り、次第に危険な状態がすすみ已むなく危険木として伐採する。何世紀もの間、人々にやすらぎと力を与え生活を見守り続けて来た神木に、感謝の誠を捧げ切株上に社を建て後世に伝えるべき祭祀奉る。』
イメージ 10
氣比神社の末社の一つ、山登(やまあげ)神社。
イメージ 11
山登(やまあげ)神社由緒…『(人々はヤマカケ神社と呼んでいた)。祭神(向かって左より)…左:春日神社・天照皇大神・八幡宮、中:湯殿山神社・月山神社・羽黒山神社・十和田山神社、右:幸比羅神社。古頃より、当地方では八甲田大岳登山信仰が盛んで、毎年時期になると、若者達が早期(暗いうちに)氣比神社と山登神社に、無病息災と登山の安全祈願をして出発した。帰還後は、無事登山出来たお礼のお参りして後に、草鞋を欅の枝に投げ掛けてから解散した。都合により登山出来なかった人達は、登山者と一緒に参拝することで、登山をしたと同様の御加護があるとの信仰があった。』
イメージ 12
再訪記事
氣比神社(おいらせ町)

百石町誌より…『元郷社にして、下田町木の下に在り、世人又蒼前神社という。此処は往古名高かりし木崎野の牧であった。古来より地方民の崇拝浅からず、毎年旧暦六月朔日・十五日の両日を以って祭日となし(明治四十三年より旧暦廃止、新暦の七月一日・十五日に改祭せらる)馬を牧するものは近郷近在は勿論、遠く北海道・岩手・秋田・山形の諸県より老若男女の参詣者が頗る多く、実に数千人を算えた。その名遠近に高く、最近迄この日には鉄道臨時列車もあり、割引乗車券の発売を見るなど頗る賑いを呈した。毎年絵馬を納め、新旧を交換するを例とし、その旧きものは各自の厩に掲げ置く時は良馬を産すと称す。また絵馬の価を定むるに百両又は千両と云う。百両とは一銭、千両とは十銭の事にして、蓋し良馬を得る祝辞なりと云われ、聊か異聞を存す。尚境内に萩の老木あって高さ四丈余あり、花時は遠くまで香り、参詣者馬薬なりと云ってその皮を剥ぎ取ったので、枯死して倒れたと云われている。気比神社の由緒に関しては、旧記の存するものなく、その詳細を知ることを得ざれども、明治六年官令により取調報告せる書類によれば、文明九年(1477)六月一日の創建なりという。』※その他、社の所蔵にある「木崎野馬護神祠堂記」と書かれた板の大額(天明8年、河村最新筆)の読み下し(櫛引周右衛門政方、寛政10年補修)、「君侯に扈従し奉り、五戸木崎牧に至る」(松尾駿渕、三戸住谷野牧の馬役人)という詩の読み下し等々についても百石町誌(P1446)に載っていますので参照ください。

青森県三本木産馬組合要覧より…『下田村木ノ下に在り、郷社、下田百石三沢三ヶ村にして世人これを蒼前神社と称す、此処は往古名だたりし木崎の牧場にして空源渺茫たる中に森林鬱蒼として即ち木ノ下村なり。木ノ下は現今戸数二十戸に出でず小村なり。祭神は足仲彦尊にして古来より地方産馬家の尊崇浅からず。毎年陰暦六月朔日同十五日の両日を以て祭日となし明治四十三年より陰暦廃止の結果再今陽暦七月一日十五日改祭せらる近郷近在は勿論遠く岩手秋田の諸県より幼老男女の群集参詣するもの其の員数千人を算し其の名遠近に高し、我等幼少の際参詣人の多くは必ず参詣馬と称して必ず盛壮せる馬に錫の音を響かせながら列をなして往来したりしが今殆ど見るべからず、多くは汽車の便を利用するの有様となり昔日の繁盛は復た百石に於て見るべからず、幼少の際味はるし気分は年と共に疎んじまる行きて如何ともすべからず。近年に至り鉄道院臨時割引乗車券を発売するの好況を呈せり。古間木停車場より乗降するを便とす。十五町東にあり。当村よりは西北に二里半と称す。社の由緒来歴に関しては旧記の存するなく、其の詳細を知るを得ざるは甚だ遺憾なりとする所なれども明治六年官命によりく取調報告せる書数に因れば今を去る四百七十余年前即ち文明九年六月一日の創建なりと云う左に同社神前に奉掲せる河邨最親子の録せる祠堂記を抄録して同神社の縁記に代う。』

イメージ 3
イメージ 2