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大高森という場所にあります。目屋の発祥地といわれる場所。天平3年(731)に僧行基が訪れて千手観音を刻み大高森の岩窟へ安置と伝え、知名度が上がると参拝者の交通不便を考慮して桜庭村の清水観音に遷座したといいます。
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江戸参勤中、津軽の殿様が南部の殿様と自慢話で争い、津軽の殿様が全山真白に花の咲く松は津軽にしかないと自慢し、南部の殿様がそんな松があるものかと反論。南部の殿様が天狗鼻をあかしてやろうと訪れてみると、驚くことに全山の松には真白に花が咲いていて南部の殿様もさすがに降参したといい、それから花咲松と命名されて、津軽はおろか南部にも噂が広がり参拝者がたえなかったそう。また、命名の由来としては、行基が松にボタンの花を咲かせて夷人に見せたからとも言われています。
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菅江真澄が村市を訪れた際に、「前方の岸辺に冠のかたちをした山があり、これを小高森といい、また大高森山という山もあった。このふたつの山の間に見える旧跡を尋ねると、むかし、京都の清水の観世音をここにうつし祭り、高く堂を建ててあがめていたが、近いむかし桜庭という村にふたたびうつして、いまこの山には、その礎石ばかりが残っているという。楼がそこにあったころから今の世まで、花咲松といって五葉の松が群立っていると、棹をさしながら渡し守りの老人が語るうちに舟はついた…」と記しています。また、菅江真澄の『雪のもろ滝』には次のような記載があります。「桜庭というところの山ぎわに、大同年間にたてたという楼のようにたいそう高い清水の観世音の堂があった。これは花咲松の山からふたたびうつしたものだという。」
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現在も登山道や遺跡が残っており、当時の繁昌がしのばれます…っていうか登山道の整備が微妙…軽装だったので登るのはやめておきました。
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令和元年リベンジ記事『花咲松 ・ 馬頭観音(西目屋村)
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