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岩木山の東南麓、岩木山神社の東。
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岩木山神社からガソリンスタンドを挟んだ場所。
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岩木山神社の一の鳥居の脇道からも行けます。すぐ近くなので岩木山神社に行った際は是非こちらにも参拝してみてください。
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本尊は虚空蔵菩薩。
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弘前藩2代藩主津軽信枚の所願で岩木山三所大権現(現岩木山神社)に付随して建立された虚空蔵堂に始まります。
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寛永2年(1625)に藩主跡目争いで荒廃した領内の安寧を憂い修業を行い(百沢寺そばの森の中に穴を掘って、求聞持法という真言宗の荒行を行いました)、「早く荒藪を芟にして永く女人結界の地と為し、虚空蔵堂を建立し、求聞持の秘法を執行せしめんと欲す」と願文を掲げ、念願成就した寛永6年(1629)に建立したそうです。建立以来藩主の祈願所として、毎年夏になると100日の虚空蔵求聞持法が修されました。
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また、津軽一統志によりますと、同元年に信枚は国家安泰子孫長久を願って行者慶好院(あるいは全勝院)に求聞持の秘法の執行を命じたと伝え、「於百沢求聞持堂御造営有、寄附仏供、毎月被修此秘法」とあります。
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津軽歴代記類によりますと、信枚は祈願成就の際に、百沢寺境内の森に瓶を埋め、その上に虚空蔵堂を建立したともいい、同6年の願文を所載。
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明治8年(1875)廃寺となり、翌9年には焼失。焼跡から地鎮祭に用いたらしい銅製の瓶子が発見されました。それには「篤信之檀主津軽越中守藤原朝臣信枚、君臣和合而寿福増長子孫繁昌国土豊饒矣、時寛永六載己巳首夏吉祥日」と銘刻されていたといいます。橋雲寺の衆徒の南光院斎藤法善が再興。
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明治26年に寺堂再建されて津軽三十三観音霊場第三番となっています(※それ以前は百沢寺が三番札所)。
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札所の本尊は十一面観音。境内に観音様の台座の下には西国三十三所の土砂が埋められています。
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また、津軽八十八ヶ所所霊場第六十六番、津軽七福神霊場大黒天奉安所、津軽弘法大師霊場第九番、丑寅年の守り本尊として多くの信仰を集めています。
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丑寅。
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修行大師。
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利生地蔵。
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よく見ると雲下から出ている両手に手を差し伸べています。
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本堂に津軽七福神霊場大黒天。
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鐘楼。
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狛犬一対。
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観音堂。
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こちらには…
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大きな御神馬。足元には小さな馬、虎、丑もいます。
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壁には馬の絵馬、虎の絵馬、丑の絵馬、大黒天の絵馬などがびっしり。
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馬の後ろから人が現れてびっくりしました(笑)
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お遍路姿のマネキン人形があります。
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『当山は真言宗智山派の寺であり、その本尊は古くから虚空(大空)のように広大無辺の智慧と福徳を授ける菩薩として、また、求聞持法の修行の本尊として古くから信仰されてきた虚空蔵菩薩である。山号は岩木山、明治4年(1871年)廃寺となった岩木山百沢寺の流れを汲むものであるが、その開創は寛永2年(1625年)津2代藩主信牧が津軽家と領民の安泰と子孫長久、国土豊饒を祈願、求聞持法の荒行を行ったのが始まりとされ、念願成就した寛永6年、この地に虚空蔵堂(求聞持堂)を建立したものであり、寺号は虚空蔵求聞持法から取った由緒ある寺である。本尊は信牧の寄進によるものであったが、明治9年旧暦8月、火災に遭って焼失、現在のものは、同12年斉藤法善和尚が焼け跡に小さな庵を結んだ時のものである。明治26年本堂の再建を見たが、現在の本堂は昭和32年(1957年)改装されたものである。明治39年(1906年)寺内から、堂建立の際用いたと思われる銅製の宝瓶が発見されている。求聞寺は古くから「百沢の虚空蔵様」と親しまれ、丑寅生まれの一代様として、また、津軽三十三霊場の第三番札所としても知られている。平成8年12月』
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岩木町誌より一部抜粋…真言宗智山派の寺院。山号は岩木山で御本尊は虚空蔵菩薩。二代藩主津軽信枚が寛永元年に国家安泰・子孫繁栄などの虚空蔵求聞法を行い、結願後に水を入れた瓶を百沢寺に埋め、その上に虚空蔵堂を建立したといいます(求聞寺(救聞持堂)の救聞持とは虚空蔵菩薩の真言を百万回唱える修行「虚空蔵求聞持法」を意味)。津軽編覧日記等によりますと建立は寛永4年。明治9年に焼失した際に寛永6年銘の銅製瓶子が出土。

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