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文祿2年(1593)2月10日創建。開基は了圓法師、俗名を竹原主水正種善といいます。
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代々竹原氏は、肥後国阿蘇家の一族の武将でした。戦国時代に島津勢との激戦の末敗北。竹原主水正種善は筑前二日市に辿り着き、戦乱の世に無常を感じて出家。時に天正11年 (1583)。法名を「了圓」と号し、本願寺教如上人の弟子となりました。
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その後、二日市の旧家大賀家の先祖より寺域の寄進を受け、坊舎を建て、文祿2年に本願寺より木佛と寺号「正行寺」を申し受けます。
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寛文9年、第3世玄周に至り、本願寺15世・常如上人の代に大谷派に帰属。
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せき止めのとうがらし地蔵。
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「この寺の境内にまつられている地蔵尊はとうがらし地蔵と呼ばれ、咳の病に霊験あらたかなことで知られている。江戸砂子に『当寺境内に浅草寺久米平内のごとき石像あり。…仁王坐禅の相をあらはすと云へり。』とある。寺に伝わる元文3年(1738)の文書によれば、僧の覚宝院が、元禄15年(1702)人々の諸願成就を願い、また咳の病を癒すため自ら座禅姿の石像を刻み、ここに安置したという。以来人々は覚宝院がとうがらし酒を好んだことから、とうがらしを供え諸願成就を願ってきた。尊像は、昭和20年(1945)5月の空襲にあい、その後再建されたものである。なおとうがらし地蔵とともに名の知られたとうがらし閻魔は、焼失したままとなっている。江戸時代、旧岩槻街道の道すじにあたるこの辺りは、植木屋が多かったところから、『小苗木縄手』それがかわって『うなぎ縄手』と呼ばれていた。」
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正行寺の隣にある西善寺には近藤重蔵墓があります。
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近藤重蔵は江戸時代後期の探検家で、蝦夷地警備の必要性を幕府に説き実地踏査に参加し、後に紅葉山文庫の書物奉行となりますが、文政10年(1827年)長男富蔵の殺傷事件の責任を問われて大溝藩(滋賀県高島市)にお預けの身となりそこで生涯を閉じました。このため重蔵の墓は菩提寺のこの西善寺のほかに高島市の円光寺の塔頭瑞雪院にもあるといいます。
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