津軽三十三観音霊場29番札所。御祭神は天照皇大御神。例祭日6月16日。沖館神明宮の社号標はかなり離れたところ(神明宮の西方約400m、平川市沖館宮崎の丁字路)にあります。参道入口は農道沿いの東側にあり、昭和16年に田中弥助他10人が除厄記念に奉納した石垣で農道と仕切り、参道沿いには石鳥居移転改築記念碑(東北縦貫自動車道路開発起工の為、神明宮参道の一部を用地として提供す。因って社頭の革表二基を現地に移転する事に決定原型の儘爰に建設を了へ本日竣工落成す。維持昭和五十一丙辰閏年十一月十六日、沖館部落)の板柱碑と石鳥居寄附人名を刻んだ板柱碑、石造鳥居三基があり、これらを過ぎると石段があって、石鳥居一基(大正11年1月16日、明治辛巳年生存記念)があり、その左手に神鳥像(昭和17年8月16日、世話人山谷耕一他97人奉納、石工石川町斎藤年正)一基、右手には手水舎(昭和56年6月21日、除厄記念、阿部福敏他23人奉納)があります。更に参道が観音堂方面へ直角に分かれ、真っ直ぐ神社方面に進むと御神灯一対(御大礼記念、昭和3年6月15日、沖館三浦団次郎建立)、狛犬一対(昭和19年10月15日、弘前市株式会社御幸商会取締役会長相馬友彦、取締役社長佐藤弥作奉納)、狛犬一対(大正10年2月16日、発起人今井松三郎他14人奉納)、御神灯一対(明治13年9月16日、岩淵己太郎奉納)が建ち並び、再び境内が数段高くなり石段を登ると、狛犬一対(昭和6年旧6月16日敬白、山谷耕一、長女きよ三十三歳記念)、石段両脇に自然石の大石と左側に事平大神の石塔(明治11年閏11月4日、山内助次郎他18人奉納)があります。
社伝によりますと、創建は延暦10年(791)で、坂上田村麻呂が東夷征討にあたり、社殿一宇建立の上、歓喜聖天及び十一面観音を勧請し祈願したのが始まり。
一時荒廃するも寛弘4年(1007)に恵心僧都、永仁2年(1294)に南部の法師知慶が再興、文亀3年(1503)に一道坊全賢(藤原一道・修験者)が神明宮を勧請し併祀。一道の両親の藤原政友と妻の貴増は京の人ですが、文明11年(1479)に兵火を避けて下向し、沖館に村を開いて、養蚕・織物などの産業を広めたと云われています。
後に津軽為信が信心し、天正3年(1575)津軽為信が大光寺城攻略の戦勝祈願をしたところ見事念願成就し、感謝の意を込めて天正7年(1579)に如意輪観音画像(「天正四丙子年八月願主藤原為信」を刻みます)を始めとし、知行70石、鏡や祭具等を奉納し社殿を再建。慶長13年(1608)に火災によって社殿他、多くの社宝や記録を焼失したものの如意輪観音画像だけは被害を免れました。
安政6年(1859)12代藩主の承昭が厨子を奉納。
明治3年の神仏分離によって神明宮となり観音堂は廃棄(弘前の大行院にかくまう)するも、秘仏希釈運動が薄まると御本尊を戻し、大正14年に神明宮境内に沖館観音堂が建立されます。
※なお、由緒については竹館村誌、新撰陸奥国誌、弘藩明治一統誌神社縁録、藩内神社調も参照ください(平賀町誌にまとめて掲載されていたと思います)。青森県の地名(昭和57年刊)には『神明宮境内にある沖館観音堂に天正四年為信が自筆の十一面観音絵像を奉納したという。天正二年八月為信は大光寺城を攻めて失敗、危うく危機を脱した。そのため観音堂に戦勝祈願し、翌三年正月元旦未明ついに大光寺城は落城した。観音堂別当が書いた「貴峰院由精記」に「天正二年九月二十四日、為信公、観音堂に御願書を奉り一百日の御心願被為次年正月二日、御満願之趣」とあり、宝殿、拝殿、神器、武具、高三十石などを与えたという』と記しています。
※なお、由緒については竹館村誌、新撰陸奥国誌、弘藩明治一統誌神社縁録、藩内神社調も参照ください(平賀町誌にまとめて掲載されていたと思います)。青森県の地名(昭和57年刊)には『神明宮境内にある沖館観音堂に天正四年為信が自筆の十一面観音絵像を奉納したという。天正二年八月為信は大光寺城を攻めて失敗、危うく危機を脱した。そのため観音堂に戦勝祈願し、翌三年正月元旦未明ついに大光寺城は落城した。観音堂別当が書いた「貴峰院由精記」に「天正二年九月二十四日、為信公、観音堂に御願書を奉り一百日の御心願被為次年正月二日、御満願之趣」とあり、宝殿、拝殿、神器、武具、高三十石などを与えたという』と記しています。
社殿は西面で間口三間、奥行三間半の入母屋屋根の拝殿と、津軽十二代藩主承昭公奉建といわれる一間四方の総桧造りの豪華な厨子堂を納めた奥院が三間四方の鞘堂に覆われて建立されています。中に寛文年間(1661-1673)の4枚をはじめ藩政時代の絵馬が20枚以上収められているそう。
陸奥新報の記事にて、境内に墓碑が一基あり、「鷹司平房公三男政友」「二条尚之公息女貴増夫人」と彫られていると読みましたがどこにあるかわかりませんでした。これについては次のような物語があります。室町時代中期に関白平房三男の政友が藤原尚之の姫貴増と恋に落ちます。しかし姫は政友の兄政知の妻となります。政友と貴増はその後も秘かに恋を続けて駆け落ちし、沖館の地に庵を結びます。2人は沖館に住んで十一面観音を信仰し、周辺に散在する庵所を1ヶ所に集めて修験の地とします。2人の間に千代丸(上記の全賢)が生まれ、父母と同じく修験の道に入り、文明11年に神明宮を建立したと伝えます。両親が亡くなると全賢は五輪塔を建てて供養したそう。神明宮社殿横に墓碑のような石碑はあったのですが五輪塔ではないですね…広船神社にはかなり古そうな五輪塔があったんですけど。なお、奥富士物語によりますと、沖館出身・津軽相撲の祖で、江戸や津軽で大活躍した龍田太右衛門の墓が現存するようですが、見逃したのかいずれもわかりませんでした。そのうち再訪したいと思います。
その隣にあった碑。
こちらが沖館観音堂。観音堂参道には石碑「津軽二十九番霊場・拾壱面観世音・除厄記念四十二歳、三十三歳、昭和五十四年七月十五日建立」(三浦儀一、田中マツエ他24人奉納)があり、その右後に「日清日露戦捷記念碑」(明治39年旧6月16日沖館村中)と出征軍人戦死者名23名の名前を刻んだ石柱碑があります。鳥居の左手には鳥居寄附者芳名192名を刻んだ板柱石碑(敬神崇祖 神明宮鳥居碑文 昭和十五年十一月十日建立)があります。石段を登ると石灯籠一対(宝暦9年4月17日沖館村施主村中)と、狛犬一対(年月不明、世話人阿部民次郎他14人奉献、石工薬師堂村白取佐太郎)、御神馬(昭和12年旧7月17日村中婦人一同奉納)。観音堂横には「山谷翁紀恩碑」(明治26年6月13日有志門人建之)の石碑と寄附者名を刻んだ石碑があります。また、参道入口前に間口三間、奥行六間の神明造の千木をつけた神道祖霊社と沼、中島に祠が祀られた池があります。
御本尊は十一面観世音菩薩。
鳥居横にあった神明宮鳥居碑文。
観音堂横の石碑。
観音堂前の狛犬と奉納馬。
県重宝の菩薩坐像の像背に「奉寄進観音堂貴峯山月峯住寺六世的心益徳代津軽平川沖館村寛文拾庚戌年三月十七日」とあり円空の作。
弁天宮。
弁天宮周囲の堀には水がありませんでしたが、向かいには大きな池がありました。
石鳥居に関する記念碑と御神木。
こちらの石には…
『せせらぎに小鳥 水浴び身を浄む』省三(平成七年五月)とありました。
境内が庭のようになっています。
奉祝御大典平成の苑の碑…『一面葦の茂みと化した神苑池の復元造成をはかり、御大礼奉祝祈念事業として、平成2年4月より工事をすすめるうち、平成3年秋、未曾有の大型台風19号のため、神樹あまた倒木の災害を被るにより、荒廃せる境内の一隅に築庭の構想を加え、平成4年完工す。平成5年、日嗣の御子御成婚・伊勢神宮61回式年遷宮の佳き年にあたり、記念の碑を建立し、国家の降昌と世界の平和、氏子崇敬者の弥栄を祈る。』。
神道祖霊社。
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