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小友農村公園(小友小学校跡地)です。
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かつての小友館跡地。
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『小友館遺跡…遺跡東側に大蜂川を望むこの台地で、いまから5000年以上前の縄文時代前期の住居跡や、平安時代の鍛冶遺構のほか、鎌倉時代の陶磁器や掘跡が発見されました。また古代から人々が住み着いていたこの場所は、江戸時代から小友館として知られ、板碑があることでも有名でした。鎌倉時代の津軽一帯は、曽我氏と安藤氏らが治めていましたが、安藤氏と関係のある三枝又五郎がこの地に館を構えていたのです。板碑とは鎌倉時代から南北朝時代につくられた石造の供養塔で、向かって右側の板碑に「正中四年」の年号が見られることから、西暦1327年に三枝又五郎の35日忌の供養のために造立されたことがわかります。また、大きく彫られた文字は梵字と呼ばれ、金剛界大日如来を意味するもので、津軽地方ではとても珍しいものです。農村公園の場所は、以前は小高い丘もあったようですが、小友小学校のグランド用地のために削られました。この丘を取り囲むように幅2-4m、深さ2mほどの堀が巡り、堀からはその当時でも貴重品だった中国産の白磁製の碗や能登半島で生産されていた珠洲焼などが発見されています。力石…昭和10年ころまでは、米俵や重い石を担ぎ上げる若者の力自慢が、村々で盛んに行われていました。村誌「にいな」によれば、小友には三個の力石があったといいます。二番目の石は割れてしまって重さはわかりませんが、120kg、157kgの石があり、17・18歳になると夜毎に集まっては担ぎ上げるのに挑戦しました。力自慢は120kgの石を「下駄を履いたままで担ぐ」ともいわれ、親子二代にわたって157kgの石を担ぎ上げた人がいたものの、多くは胸まで抱え上げるのが精一杯であったと伝えられています。』
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板碑空間。
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正中4年(1327)の板碑(高さ95cm、幅53cm、厚み42cm。安山岩)。※正中3年4月26日嘉暦と改元。
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中央には金剛界大日如来の種子バーンクを刻み、また碑の下方には『始見我身 聞我所視 即身信受 入如来慧 奉開口三枝又五郎殿 佛道五七忌口立石塔 也正中四七月二日 孝子敬白』と刻みます。状態が非常に良好。
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隣の板碑(高さ68cm、幅64cm、厚み24cm。安山岩)については説明がありませんでしたが、「慈父恩高如山王 悲母恩深如大海 我君現世於一切 口悲母恩不能報」と刻みます。
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力石(120kg・157kg)。
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力石と言われなければ…ただの石だと思うレベルです(笑)
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