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享和元年佐藤六郎左衛門が代官手代塚本藤九郎に相談した上で、福井村内の大川添北方を見分し、代官川田忠八へ開発を伺い、郡奉行の沙汰により福泊村と名付けました。後に長泥村に改称。
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文化元年には下幅3間・上幅6尺・高さ7尺・長さ900間の築堤が岩木川沿いに完成。
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天保初年には家数40軒余でしたが、天保の飢饉のために鈴木又助(三橋又助)1軒だけを残し離村。後の安政5年に再興。
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稲荷神社は文政2年(1819)、佐藤六郎左衛門の勧請によるもの。天保の飢饉後は廃社となりますが、慶応2年(1866)に再建。
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明治6年には一時的に田茂木村の稲荷神社に合祀されて、後昭和22年6月復社。第二次世界大戦後に現在地へ移転。
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青森県神社庁によりますと『醍醐帝の御代坂場八郎家資卿勤五ノ兵を擧ぐるに際し帝の謁見を得、京都伏見稲荷神社の御分霊を捧持し来たけれども越後国で戦いに破れ海路津軽に落延びたと云われ、家資津軽地に遊去の後子々孫々稲荷社を厚く崇敬し来たけれども、文政二年に至り家資の後裔義道より長泥部落開発守護神として勧請するに至り、天保年間、凶作のため廃家続出離村するに及び田茂木稲荷神社合祀』とあります。
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