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御祭神は誉田別尊。
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青森県神社庁による由緒。
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「七戸町の西端にそびえる八幡岳(1022m)の山上に鎮座。 宝暦(1751-1764)の頃の御領分社堂に御嶽権現とみえ、俗別当見蔵坊とあります。見蔵坊は見町観音堂の別当も兼ね、神仏分離令により明治6年に上川目神社と改称しましたがその後嶽八幡宮としました。
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『新撰陸奥国誌』には上川目神社、本村の西に当り支村高屋敷の西33丁38間八幡岳の山上にあり、祭神八幡宮本社南向柾葺2間に3間、この山上に八幡宮を祭るなれは八幡岳と称し社を岳八幡宮と云ひしか明治6年4月今の神社の名に改む、遥拝所、高屋敷の南25間にあり、3間4面菅葺・鳥居一基・狗犬2頭。」。
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上川目神社は八幡岳の頂上に鎮座する神社で、御神体や宝物が度々掠奪されるので、明治2年に高屋敷村に拝殿を造営して神宝その他を移し、岳八幡宮と命名。以来八幡岳の遥拝所の役目を果たして今日に至るそうです。
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八幡岳は元々オダケと称しており、戦前は15歳に達した者が旧4月15日にオダケ参り(オンタケ参り)をして成人の仲間入りをしたものでしたが、無事登頂参拝をすませた若者は必ずここに立ち寄って、境内に置かれた力石をかつぎ合って力を競い合ったといいます。石の重さは等級があり40貫(150kg)を超すものがあります。
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※オダケ参り…2週間程前より宿に泊まって垢離をとり、精進料理を食べて、向町、高屋敷、八ヶ田、上田、山館を経て馬立場に着き、ここで新しい草鞋に履き替えて、山頂を目指します。山頂で御神酒とお粢2個を供えて成人を報告。神官はお神酒の半分とお粢1個を返し、若者はそれをありがたく頂きます。なお、八幡岳は女人禁制でした。参拝を済ませた若者たちは上田の朴の古木の枝に木の鉤を投げかけて嫁占い(投げた鉤のさす方向から自分の嫁が来ると予知するもの)を行ったといいます。そして末社となる高屋敷までくると、祭りが行われており安堵感と満足感で楽しい一時を過ごしたといいます。これらは戦後は行われなくなりましたが、例大祭には前日から登り、一夜を過ごして御来光に祈るという「おこもり」は続けられているそうです。ちなみに昭和56年(1981)に舗装牧道が完成し、登山も比較的容易になったよう。
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ちなみに八幡岳については、後醍醐天皇の延元3年(1338)の春に、東南方から一条の光がたなびき夜な夜な光り輝いたので、西野の孫左衛門という者が見届けのため登り、一本の鏑矢を発見して持ち帰って祀ったところ、その子孫四郎に「我は是れ八幡大神である、吾を雄嶽に奉祀せば、国家泰平五穀成就せん」と託宣を得て、岳の頂上に祀り、雄嶽から八幡岳に改名したと伝えます。
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万延2辛酉年(1861)正月吉日、浜中幾治郎・同善右衛門・同友吉並びに運送船 宝永丸 興良の名を刻んだ狛犬一対。
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社殿の後方。
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熊野権現様を納めた神楽堂があります。
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天保7年に記録に「御嶽八幡宮ノ末社有、熊野権現ノ社」とあり、八ヶ田組の権現様を納めているといいます。
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