

盛岡天満宮の狛犬です。


かつては地面に置かれていましたが、昭和8年7月に思郷歌「病のごと 思郷のこころ湧く日なり 目にあをぞらの煙かなしも」の歌碑除幕式と同時に啄木の歌を刻んだ台座に据えられました。


阿形の台座には「夏木立中の社の石馬も 汗する日なり 君をゆめみむ」。


吽形の台座には「松の風夜晝ひびきぬ 人訪はぬ山の祠の 石馬の耳に」。


啄木は小説「葬列」に「旧知己とは、社前に相対してぬかづいている一双の狛犬である。(略)克く見ると実に親しむべき愛嬌のある顔だ。」と記しています。天満宮は啄木が中学時代にしばしば散策に訪れて読書や思索に耽った場所でした。

またこの石馬は明治36年6月、前年の菅公一千年祭を記念して、近くに住む高畑源次郎が、病気平癒の願いが叶えられたお礼に奉納したと伝えられています。


全国で3番目に建てられた石川啄木歌碑。


「病のごと 思郷のこころ湧く日なり 目にあをぞらの煙かなしも」


盛岡城下の寺子屋師匠の草分である芝田湛水による筆塚の2字。

文化元年(1804)に門弟ら1500余人により建立。

こちらの筆塚には加藤孤節先生とあります。村井孤月の師匠にあたる方らしいです。

融通大念仏勧化の名号碑。

京都の浄蓮華院の憲眞法印が延宝4年(1676)7月に盛岡城下で融通念仏を行った記念碑、その年に建立されたもの。

安楽寺の名残りですね。

明和5年(1768)杉浦麻斤建立の芭蕉の句碑。

大島(雪中庵)蓼太は江戸俳壇の実力者で、芭蕉への復帰を唱え、東西に吟行し、多くの門人を抱えていました。芭蕉門十哲のひとり服部嵐雪の流れをくむ俳人。その大島(雪中庵)蓼太の門人が杉浦麻斤。案内文には動機が定かではないとしていますが、動機としては十分な気がします(笑)

表面は「古池や蛙とびこむ水の音 芭蕉翁」

裏面は「梅花開一重に彌陀の彼岸哉 東花坊」・「居らんとして烏の行衞かな 幾暁庵」

台座が大きな石蛙です。

弘化3年(1846)建立の小野素郷(天保年間における郷土俳壇の第一人者。27回忌に遺族門人建立)の句碑。

「思無邪 梅開柳青めば夢もなし 松濤」

高橋煙山句碑。

「梅疎なり月照る杜の杉襖」

高橋青湖句碑。

「岩手颪 ごうごうと 枯野傾けり」

菅廟植梅記碑など。


明治35年菅公1000年祭に臨み盛岡菅公会設立3000坪の拡地を行い梅1000株を植え、施設を整え盛大な祭典を執行し神慮を慰めるに至った経緯について誌されています。



銭湧石。


昔、この石の亀裂から多くの古銭が掘り出されたことから名付けられたそう。

石割梅。

銭湧石の裂け目に自生した梅。菅公を祀る神域にふさわしく梅の花実をつけています。

境内の片隅には清岡家の墓がありました。


清岡行三・育子之墓。明治16年癸未11月6日。享年47。



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