二の坂です。
茶屋があります。
オアシスですね!!
二の坂を進みましょう。
(o´Д`)=зハァ
芭蕉三日月塚。
芭蕉塚案内。
日枝神社&愛宕神社。
三山無縁塚など。
鳥海山遙拝所。
本坊宝前院若王寺跡。
二の坂から分岐された道から続々と人が歩いてきました。
来た人に尋ねてみると、あまり観光客は行かない場所だけど稲荷神社があるので行ってみなさいと…。
前日の雨で足場が超悪いよー。
道が険しくなり(写真撮る余裕なし)…崖を滑り落ちてお尻を真っ黒にしながら辿り着いたのは…伊邪那岐稲荷神社!
さて、心折れながら再び二の坂まで戻ります。
二の坂を少し上って再び分岐!
南谷へ向います。
『ここから右手の小道約500m入ったところに県指定史跡南谷があります(徒歩片道15分位)。今から約300年前(寛文2年(1662))、時の羽黒山執行別当(最高責任者)天宥法印が拓きました。
当時、羽黒山頂にはいくつかの寺院があり、本社・寂光寺(今の三神合祭殿の前身)が類焼するのを防ぐためそれらの寺院を山内に下ろして移築しました。寛文2年に築かれた南谷の紫苑寺もその一つで豪華絢爛な大寺院でありました。しかし、奥の方に位置するため、なにかと不便だったので、自然に迎賓館のような機能をはたすようになり、いつしか別院と呼ばれるようになりました。芭蕉の滞在所にあてられたのも、こうした関係からです。その後、文政年間(江戸中期)に覚諄別当がこの地の静寂を愛し、しばしば句会を催したりしましたが覚諄別当隠居後はほとんど足がふみ入れられることはなく、庭園も荒れ、建物もいたみ、ついに倒壊してしまったので、その跡には八幡坂上(今の三の坂の上)にあった玄陽院という寺を移し、秋の峰の一の宿に当てられるなどしました。
その後、明治の神仏分離の際、全て倒壊され、今残っているのは玄陽院の一部の礎石のみです。覚諄別当が建立した松尾芭蕉の"有難や 雪をかほらす 南谷"の句碑があり、最近では環境省認定かおり風景100選にも選ばれ、俳句愛好者も多数訪れています。また、芭蕉来山当時の南谷の風景を復元されようと地元・手向の若者を中心としたボランティアの人々により心字池等が整備・復元されたので、院をめぐって池を配し、周囲の自然を巧みに取り入れた閑寂幽遽名園の面影を偲ぶことができます。』
足場が悪くて遠く感じますねえ。
句碑。
『万緑や 神畏の経 躓きつつ』桂郎(石川桂郎)。
『月山に速力のある雲の峰』盤水(皆川盤水)。
南谷別院跡に着きました。
すごく気持ちいいところです!!
パワースポット♪
わーい!わーい!
クララが立ったー!!
寄り道した甲斐があります。
芭蕉句碑。
あれ?奥に道が続いてます。もちろん行くしかないでしょ!!ひたすら人気のない山道を進む!江戸時代中期以降の歴代別当の供養塔。
私はこの後何もない凄く凄く長い道のりをひたすら進み続け…ついには山頂に着いてしまうのですが、どうしても二の坂・三の坂(正式ルート)に戻りたくて再び同じ道を戻ることになるのです…100倍疲れました。
後から調べましたら、南谷別院紫苑寺(現世)から吹越の峰中堂(あの世)へ渡るとされた大渡道という旧参道らしく、そんな有名な道ならば戻る必要はなかったと…二の坂・三の坂は復路でもよかったわけだし…っていうか案内看板必要だって!
ってことで南谷~二の坂に戻ってきましたよ(o´Д`)=зハァハァハァハァハァハァハァ
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