
通称伝馬・大字藤崎字若前にある鹿島神社は、藤崎八幡宮と並ぶ藤崎を代表する神社です。

昔は付近一帯が大林と呼ばれる巨大な林で、明治3年の神仏分離以前は毘沙門と呼ばれていました。

貞享4年検地水帳には円太夫抱えの毘沙門堂とあります。別当興福寺。


平安時代初め坂上田村麻呂の蝦夷征伐の際、蝦夷の頭領・恵美の高丸の霊を退治した時、田村麻呂の守護神である毘沙門を祀ったのが始まりと言われております。
「神社微細社司由緒調書上帳(最勝院蔵)」によりますと、延暦12年(793)坂上田村麻呂が田舎郡浪淵村(現不明)の水中で恵美高丸の霊を退治し、守護神毘沙門像を安置し、小笠原円之太夫を社人に命じたといいます。「南津軽郡是」によりますと、その後藤崎城主安倍氏が軍神として崇拝したと伝えます。「津軽一統志」には『往古別当寺院号奥法山興福寺何時歟及退転 慶長年中氏子再興』とあります。津軽為信・信枚・信義による造営があり、延享5年(1748)に講中と村民により再建。神楽は3年ごとに藤崎村・葛野村で行ったそう。
寛文4年(1664)藤崎遣、貞享4年(1687)藤崎組が編成され、代官所は寛政11年(1799)の戸数改図によれば毘沙門宮社家小笠原対馬宅向かいに置かれています。


御祭神は武甕槌神(たけみかづちのかみ・鹿島神社に一般的に祀られている天孫降臨に関わる伝説の神)ですが、本殿には荒磯前神社や愛宕神社も合わせて祀られており、他に稲荷神、富士神、坂上田村麻呂神霊などたくさんの神が合祀されています。


この日はちょうど三社(鹿島大神・愛宕大神・洗磯前大神)合同祭が行なわれていました。写真は午前に撮ったものですが宵宮が始まる夕方には多くの人で賑わいます。


田村麻呂が地面に突き立てた藤の杖(鞭)から枝や根が伸び、付近を「藤の咲く里(藤咲村)」と呼ぶようになったという町名由来の伝説の地。

町で管理している立派な土俵。

幕内力士藤ノ里栄蔵碑。大関大ノ里の甥です。

かなり大きい名大関大ノ里萬助碑。相撲の神様と謳われた藤崎町の名力士です。毎年大ノ里杯少年相撲大会が行なわていましたが現在は違う場所で行なわれているそう。

こちらも力士ですね。國見山?

神社碑、平和祈願碑、忠魂碑、庚申塔など。





合同祭の日には遺族の方々によって戦没者慰霊会等も開かれています。

本殿の横に祠がいくつか並んでいます。



1つの祠以外はすべて神馬堂でした。





境内の隅にひっそりと祠がひとつありました。

小館衷三氏の『十和田信仰』には境内にある榎の古木を御神体として祀る乳神豊量神社があり、乳が出ない人がお詣りすると乳が出るようになり、豊量が気になり堂内を調べたら、社屋建立の寄附金者名の板に九竜様であることが明示されており、豊量-法量様であったとあり、また、『津軽ふるさと散歩』には境内の隅に乳神豊量神社の小祠があり、九頭竜神(法量神)を祀っていると書かれていましたが、それについてはちょっとわかりませんでした。

コメント