イメージ 3
御祭神は鹽土老翁神。
イメージ 4
鹽竈神社の境外末社。
イメージ 5
塩竈の地名由来となった神竈が安置されており、毎年7月の例祭では神饌を調進する特殊神事である藻塩焼神事が行われています。
イメージ 6
由緒案内。
イメージ 7
イメージ 8
イメージ 9
御釜神社の史跡と伝説についての案内。
イメージ 10
『御釜=御釜神社には、御釜とか神釜と呼ばれる4口の鉄製の釜が祀られています。塩竈の地名はこの釜に由来するものとされています。塩竈では古くから製塩が行われていました。近辺の貝塚遺跡からは、海水を煮詰めた土器の破片も数多く発見されています。土器製塩が鉄釜による製塩へと変わるのは、一般的には平安時代とされています。鉄釜の使用によって、塩の生産は飛躍的に発展したことでしょう。西暦1300年頃に描かれた塩竈津の風景画には、2基の釜が描かれており、この頃すでに塩焼きの釜が塩竈のシンボルになっていたらしいことが知られます。これら4口の鉄釜が、いつ頃のものかは不明ですが、江戸時代初期の塩竈の絵図にはすでにこれらが描かれております。
イメージ 11
イメージ 12
御釜の伝説=4口の神釜には屋根がありませんが、ここに湛えられている水は、常に溢れることも涸れることもないとされ、江戸時代には、世に変事のある時、その前触れとして御釜の水の色が変わるといわれていました。また塩竈の地誌「奥鹽地名集」には、釜はかつては7口あり、そのうち3口は盗賊に持ち去られたという伝説が記されています。それによると1口は、釜ヶ淵(新浜町の東北区水産研究所の先の淵)の海底に沈み、別の1口は、野田の釜田(塩竈陸橋下あたり)の田の中に埋まり、さらにもう1口は、黒川郡志戸田村の塩竈殿(富谷町志戸田の行神社)と称される所の池に沈んでいると記されています。これらの現地には、それぞれ今もなおそうした言い伝えが残されています。
イメージ 13
藻塩焼神事=古代の製塩法を今に伝える「藻塩焼神事」は、ここ御釜神社で、毎年7月4日から6日にかけて行われています。まず初日(7月4日)は、花渕沖(七ヶ浜町)で海藻のホンダワラを刈り取ります。これが藻刈神事です。2日目(7月5日)は、釜ヶ淵で満潮時の海水を汲み、木の樽に入れて担いで運び、これを御釜に注ぎ入れます。これが水替神事です。3日目(7月6日)は、竈に鉄釜をのせ、竹棚の上にホンダワラを広げ、海水を注ぎかけ、燧石で点火して釜の海水を煮詰め、荒塩を作ります。古式に則ったその製塩法は、宮城県の無形民俗文化財に指定されています。
イメージ 14
イメージ 15
藤鞭社と牛石=ここにある藤鞭社と牛石について「奥鹽地名集」は、次のような伝説を伝えています。昔、和賀佐彦という神様が7歳の子どもの姿となって、塩を載せた牛を曳かれました。その牛が石になったとされるのが牛石です。そこの池の中には、今もなお牛の背を思わせる石が沈んでおり、1年に1度の水替え神事の際、その姿を見ることができます。またこの池の水は海と繋がっているとも言われています。また神様が立てかけ置いた藤の鞭に枝葉が茂り、藤の花が咲いたのをお祀りしたのが藤鞭社(藤鞭の祠)といわれています。藤鞭社と牛石。神釜とともに、塩造りとの深い関わりを今日に伝えています。』
イメージ 16
神竈奉置所。製塩に用いた4口の鉄釜が御神体として祀られています。鹽竈社神籍によりますと、神代において鹽土老翁神が海水を煮て製塩する方法を人に教えた時に使用したもの。拝観は可能ですが撮影は禁止。
イメージ 17
牛石藤鞭社。
イメージ 18
鹽土老翁神が塩を運ばせていた牛が石と化したと伝えます。
イメージ 19
イメージ 20
穴の中に牛石が沈んでおり、渇水時、もしくは水替え神事の際でなければ見ることができません。また次のような伝説もあるようです。
イメージ 21
白坂です。
イメージ 22
イメージ 23
白坂山凝灰岩と呼ばれる岩盤上にあるのが坂名の由来。
イメージ 24
坂上は雲上寺や慈雲寺がある小山。
イメージ 25
国府津から国府多賀城へ通じる古道で、奈良時代の神亀元年(724)頃、白坂観音堂の背後の高台には国府津町いわゆる香津(国府津)千軒がありました。江戸時代になると御釜社脇の雲上寺への坂道も含めて白坂と称するようになりました。
イメージ 1
イメージ 2
ブログ村ランキング参加中←クリック宜しくお願いします♪