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町の至るところに設置されているこの看板を辿れば大慈寺に着きます(笑)
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大慈寺町の由来は寛文13年(1673)創建の当寺にちなみます。
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祇陀寺の東に隣接。
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本尊は如意輪観音。
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盛岡三十三観音第6番札所。
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山門は明治38年(1905)に建てられた竜宮門と呼ばれる形式。
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天井には2つの龍が描かれています。
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開基は徳真道空。盛岡砂子によりますと、初め徳真は鷹匠小路・呉服町への抜口の酒屋付近に庵を結び、現在の境内地はかつて久慈弥次右衛門の屋敷であったといいます。
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寺社修験本末支配之記には萬福寺(現京都府宇治市)末寺で、寺領63石余(内30石現米)、塔頭は寿泉院・松月庵とあり、盛岡藩領内に末寺10・支配寺2を有します。寺領は初め30石でしたが、享保14年(1729)盛岡藩主南部利視は東中野村にて13石、上関村(現岩手郡西根町)にて20石を加増。
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藩主南部行信の娘光源院は黄檗宗を信仰しており、遺言により当寺に埋葬されて現在もその墓が残ります。なお、当寺の宗旨に帰依した光源院の発願により享保の頃、北上川の新山河原で施餓鬼法要が行われたと伝えますが、一説には現在8月16日夕刻に同川で行われる「舟コ流し」の起源になったともいいます。
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境内より湧き出る清水は、冬は湯のようになり、夏は冷水となり、これを木管で南の鉈屋町中ほどへ引き、大慈清水と称して町民の生活用水として利用。
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元禄14年(1701)に現在地に堂塔を建立。
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明治17年(1884)の大火で堂宇類焼。末寺である仁王村長町北裏の天福院を移築し、首相原敬の篤志により、大正8年(1919)本堂・庫裏・山門を新築し今日に至ります。
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大雄宝殿。
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阿金剛。
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吽金剛。
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六角堂。
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和敬堂。
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無濁?相変わらず草書体が苦手です。
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原敬墓所。
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大正10年11月4日、東京駅丸の内南口で暗殺され、11月11日に悲しみの雨が降りしきる中、ここ大慈寺に葬られました。遺書には「東京にては何等の式を営むに及ばず、遺骸は盛岡に送りて大慈寺に埋葬すべし」とあったそうです。
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「原敬墓」の三文字だけの墓碑は西園寺公望の筆。遺書に「墓石の表面には余の姓名の外戒名は勿論位階勳等も記すに及ばず」とあります。最期まで平民として生きた原敬の強い信念が表れている墓。
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原敬を最後まで支えた妻である原浅墓。
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原内閣の書記官長高橋光威墓もあるそうです。
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三界萬霊塔。
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地蔵菩薩御堂。
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稲荷大明神がありました。
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福聚稲荷社新築寄進(平成19年5月吉日)。
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