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九段下の駅をおりて坂道を~♪
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人の流れ追い越して行けば~♪
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黄昏時雲は赤く焼け落ちて~♪
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屋根の上に光る玉ねぎ~♪
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ってことで九段坂の紹介です。
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昔は非常に急な坂道だったと伝えますが、現在は緩やかな直線の坂道。
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九段坂標柱より…『この坂を九段坂といいます。古くは飯田坂ともよびました。「新撰東京名所図会」には"九段坂は富士見町の通りより、飯田町に下る長阪をいふ。むかし御用屋敷の長屋九段に立し故、之を九段長屋といひしより此阪をば九段阪といひしなり。今は斜めに平かなる阪となれるも、もとは石を以て横に階を成すこと九層にして、且つ急瞼なりし故に、車馬は通すことなかりし(後略)"とかかれています。坂上は、月見の名所としても名高かったようで、一月二十六日と七月二六日には、夜待ちといって月の出を待つ風習があったといいます。』
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田安門標柱。上記写真の靖国神社へ渡る歩道橋から、天気が良ければ富士山が見えますよ。
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太田道灌時代、江戸城の合戦場といわれた辺り。寛永13年(1636)に建てられたと考えられており、昭和38年には解体修理を行っています。門名の由来は門内に田安台といって、はじめ百姓地で田安大明神があったからと言われます。ちなみに田安門は通行こそ可能ですが工事中でした。
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子爵品川彌二郎卿像があります。高村光雲監督。原型作者木山白雲。鋳造者平塚駒次郎。建設者西郷従道他2845名。品川弥二郎(1843-1900)について詳細を知りたい方はWikipediaでどうぞ(笑)
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高燈篭は靖国神社正面の常夜灯として明治4年(1871)に建設。靖国神社(当時は東京招魂社)に祭られた霊のために建てられました。また、当時は九段坂の上から遠く筑波山や房州の山々まで見渡すことができ、品川沖を行き交う船にとっては灯台の役割も果たしたそうです。
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坂下方面へ…。
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九段会館や昭和館があります。
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蕃書調所跡。
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『安政3年(1856)に、江戸幕府は竹本図書頭拝領屋敷上地である当地に、蕃書調所を設けました。蕃書調所は、最初「蕃書和解御用」として西洋の書籍を解読して海外事情を調査するために設置されました。その後、幕臣・諸藩の家臣らに対して西洋の文物を教育する機能も加わります。また、画学局も置かれ、明治期に活躍した西洋画家たちも多数学んでいます。のち神田一ッ橋通りに移転して、洋書調所、さらに開成所と改称しています。明治2年(1869)に、大学南校となり、開成学校と改称しました。現在の東京大学法学部・文学部・理学部の前身です。』
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元飯田町跡の標柱。天正18年に江戸に入府した徳川家康に千代田村とその周辺を案内したのが飯田喜兵衛で、その詳細な案内に感心した家康が飯田喜兵衛に名主を命じ、飯田町と名付けられました。
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こ、これは!?(( ;゚Д゚)))ガクガクブルブル
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山下恒雄作の寿人遊星。
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『この彫刻は、1986年ハレー彗星の地球接近を記念し、人々の清福を望み、星と縁(ゆかり)の深い“寿老人”を模して製作されたものであり、「彫刻のあるまち・千代田」として、潤いと個性のある歴史と文化を重視した新しいまちづくりを願う久保金司氏より、神田の魅力を記録した絵本「かんだ彷徨」の浄財をもとに本区に寄贈されたものです。』
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江戸時代からその名を残す俎板橋より堀留を望む…上は首都高。
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俎板橋は日本橋川の最も上流に架かる橋で、堀留の間の西岸には寛文4年(1664)より俎河岸が存在しており、物資の荷揚げが行われていました。
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