如来瀬の産土神社の1つ。
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境内由緒。
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『津軽に水田灌漑のために人柱のあったとされる伝承は浅瀬石川の藤崎堰と、ここ杭止堰の二例である。ここは岩木川左岸の灌漑には重要な地として、古くから第一の堰口があったとされるが、何時の頃からかは詳らかではない。岩木川がしばしば氾濫を起し、村人達に大きな被害と恐怖を与えていた。
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伝承によると、文明4年(1472)旧暦4月26日、堰神の神官川崎権太夫(現羽黒神社-宮地-の川崎氏の遠祖)が自ら人供養となり、水神の怒りを静め、永く堰口を守らんと決し、身を浄め、折からの豪雨の中、白装束に身を包み、白馬に乗って堰口に向かい激流の中に身を入れ川底に伏して杭を打たせ、人柱となって工事を成功させたと言われ、水下6ヶ村の深い感謝を受け、権太夫を堰神に合祀したとされる。
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後に娘の真手女も父の後を追い同所に入水したとある。後になって津軽氏2代信枚公より社領30石と士分を賜り、慶安4年(1651)3代信義公は盛大な祭典を挙げその霊を慰めている。
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現在の堰頭首は、昭和37年津軽灌排災害復旧工事により完了したものであるが、それを記念し時の杭止堰土地改良区理事長三上盛司氏の尽力により、「杭止神社」造営、それまで羽黒神社に合祀されていた神霊を迎え、同神社川崎氏の当主光晴氏他関係者の奉仕によって鎮座祭が行われ今日に至っている。』
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『青森の伝説』には以下のようにあります。
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『杭止の堰といって、水田用水の取り入れ口があった。ある年の田植えどきに豪雨がつづき、堰がすっかり破壊されてしまった。村人は復旧作業に努めたが、容易にははかどらなかった。
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ここに祭る水神の神主川崎権太夫は、この難儀を救おうと祈願したが、雨はますます降りつづき、いかんともできなかった。そこで権太夫は、人柱となって村人を助けようと決心した。白装束をつけ白馬に乗って、村人に向い「わが身が川底に沈んだらその上に杭を打ち、石俵を積め」と告げて、馬に乗ったまま濁流の中に飛び込んだ。こうして難工事が完成し、その後はどんな大水にも堰は破れなかった。下流六か村の村人たちは深く感謝し、権太夫を水神に合わせ祭った。今の「堰神社」がそれである』
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更に『水神竜神 十和田信仰』によりますと、「紙漉沢の近くの機織淵は、堰神川崎権太夫の娘が父のあとを追って投身したところで、晴天の日には娘の織った布が川底に見えるという伝説があるが、全国的に流布されているものの一つである」とあります。
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川崎権太夫については室町時代の如来瀬の神職で、文明(1469-87)の頃に人柱になり、また一説には元和(1615-24)の頃の人とも伝えられます。
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川崎権太夫が人柱になるために白馬に跨り堰口へ進んでいる絵図です。
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杭止神社建立25周年記念。奉納者三上盛司。
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境内には三上盛司氏胸像もあります。
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近くに別の鳥居が見えたので行ってみました。
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弘化3丙午年6月7日庚申塔や明治22年己丑年4月23日二十三夜塔など。
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昭和6年4月、杭止堰堤防工事記念碑。
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なお、『青森の伝説』には「兼平山の下の田んぼに大人の足跡と呼ばれる足形に似た大きな窪地がある」、「大久保の杭止の淵の上に鬼の足跡石と呼ばれる大きな足形がついた岩がある」という伝説も掲載されていますが、これらについてはどこにあるのかわかりませんでした。
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