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正門前には朱色の太鼓橋がかかっています。そして池の中央には…河童!
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左右に河童!!
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筋肉質な方がオス河童で、子河童におっぱい飲ませているのがメス河童。
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櫛引八幡宮本殿の左の脇障子には鷹にメドツ(河童)。
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どうやっても河童部分を上手く撮れる角度がありませんでした。どうしてもちょうどメドツの部位に手すりが…。
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『「馬渕川のメドツは腹が空くと人でも馬でも川の中へ引っぱり込んでイタズラをした。八幡様の使いの者の鷹がメドツをこらしめた。「櫛引八幡宮ものがたり」より』
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『当宮の多くの彫刻の中で異彩を放ち、櫛引八幡宮の七不思議の一つと云えるものが、左脇障子の「鷹にメドツ」の彫刻である。八幡大神の使いで、人間の背丈ほどもある大鷹に河童が掴まれ、苦しい表情でこらしめられる様が彫られている。滑稽とも思える題材であるが、重要な部分に据えられている彫刻である。』
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櫛引八幡宮ものがたりより一部抜粋。『昔、はちまん様のお宮を建てるのに、名人の左甚五郎という大工様が江戸からやってきました。甚五郎は忙しさの中、柱の長さを間違ってしまい、その部分を川にこっそりと捨てようとしたところ、何百年も経た木の一部分であるその柱は木霊が宿っていたのか「やめてくれ」といいました。甚五郎は「うるさい、ケツでも食え」と言って川へ投げ捨てると、その柱はメドツになりました。メドツは柱のヌキの部分でもあったので、右手を伸ばすと左手が短くなり、その分ずっと右手が長くなり、反対の手も同じようになっていました。ケツでも食えと言われたので、川で人や馬を引きずり込んでダッコ(脱肛)を抜いて食べるようになってしまいました。そこで困った村人たちがはちまん様へ助けてもらうようにお祈りしたところ、はちまん様は使いの鷹を飛ばしてメドツを捕らえさせ、懲らしめました。強情なメドツの頭を鷹がつついたので頭のてっぺんがはげてしまいました。強情なメドツもたまらず改心し、はちまん様も許しましたが、普段は封じておくこととしました。そして7月7日から10日間だけは開放し自由にさせることにしたので、現在も新暦ではお盆の頃には川や海には入らないように、とされています。』
その他資料より…『むかし、櫛引八幡宮を建てるため、名人の左甚五郎という大工を江戸から頼んだ。甚五郎は忙しかったのか、柱の寸法を間違って余分な所へ穴を開け、ヌキを通してしまった。左甚五郎ともあろう者が、間違ったでは済まされないと、ヌキを通したままその部分を切り取って、馬淵川へ捨てようとした。ところが、切られた柱が口を開いた。「甚五郎殿、ちょっと待ってくれ。わたしは元々、西の岳(八甲田山)の山中で育った欅の木だ。お宮の大黒柱に使われるというので、喜んで運ばれて来た。それが自分が測り間違ったというだけで、ぶった切って馬淵川へ捨てなくてもよいではないか」という。「何をいうか、ケツ(お尻)でも食らえ」と、甚五郎は切り取った柱を馬淵川へ捨てた。その柱が、そのまま馬淵川のメドツになった。それで、メドツの腕は柱のヌキのように、右手を引っ張れば、左手が短くなって、右手が伸びるようになっているし、それにスポンと抜けやすい。それに、ケツでも食らえといわれたので、川で馬の尻を取って食べるようになったという。』
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メドツの体は黒く、顔は猿、一見10歳程の子供のようにも見え、時おり少女の姿となって人間を誘惑し、水の中へ誘い込んで溺れさせようとする生物。人間に子供を産ませたり、一度人間を狙うとその友達や親戚に化けて川に連れ込むともいうそうです。
津軽弘前の郷士・平尾魯遷の著書『谷の響』によりますと、津軽藩若党町にて、一人の子供が川でメドチに襲われたそう。その子供を助けて水を吐かせたところ、肛門から長さ1尺6,7寸の頭が大きく体の平たいものが走り出て周囲を狂い回ったそう。打ち殺そうとすると川へと逃げ去ったといいます。
メドチにやられると肛門が大きく開いた状態になるといわれますが、それは溺死によって肛門の括約筋が緩んだことを意味するものでした。ちなみにメドチの伝承や目撃談には頭部に皿があるという証言はないそうです。
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