弘前市が設置している古町名標柱などをまとめてみました。

【本町(ほんちょう)】
藩政時代初期から鍛冶や銅屋の職人町で、著名な刀工が住んでいたことから本鍛冶町と呼ばれ、この略称から本町(ほんまち)となりました。宝永2年(1705年)、城の大手が北門(亀甲門)から南門(現追手門)となってからは、豪商が軒を連ねる商人町となりました。
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【元大工町(もとだいくまち)】
弘前城築城の際、城内構築のための大工職人を城の近くであるこの地に住まわせて大工町としていました。しかし、城内武家郭外移転により大工職人は現在の西大工町に移り、ここは元禄十三年(1700)には元大工町となり、藩医、町医などが住み、医者の町となっていた時代もありました。
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【親方町(おやかたまち)】
藩政時代初期に馬で荷物を運ぶ荷駄方人足の親方衆が住むところとして町割りされてました。当初は現在の倍ほどもある大きな町でしたが、宝永三年(1706)ころの町替えによって今のような姿になりました。
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【土手町(どてまち)】
築城当初は東側から城下に入る唯一の通りで、土淵川の西端に堤が築かれていたことから土手町と呼ばれるようになったといわれています。貞享二年(1685)から参勤交代の通路となり、商人町として発展しました。
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【茂森町(しげもりまち)】
慶長八年(1603)に亀甲町などとともに最初の町並みとして、更に城の南西の要所として町割りされました。町名は、近くにあった重森山にちなんで名付けられたといわれています。
茂森町
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【茂森町桝形(しげもりまちますがた)】
弘前城下の道路は、敵の侵入を困難にするよう様々な工夫がなされています。直進を防ぐため二重に角をつけた「桝形」もそのひとつで、町の入口や要所に多く造られました。ここに残る桝形は、「長勝寺構」への通路にあたるため特に設けられたといわれています。
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【在府町(ざいふちょう)】
在府とは、大名や家臣が江戸で勤務することで、藩政時代初期には足軽町と呼ばれていました。やがて江戸で召し抱えた侍を弘前に連れて来たとき、この地に住まわせたので在府町と呼ばれるようになりました。
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【覚仙町(かくせんちょう)】
慶安二年(1649)には10軒の鍛冶屋があり「かち町」と呼ばれたが、町内にあった修験の寺院の覚勝院にちなんで、元禄13年(1700)の侍町屋敷割には覚勝院前之町とされ、やがて寛政年間(1789~1801)に現在の町名に固定した。同町に住んだ国吉家・森宗家・国広家は津軽の刀匠として著名である。 
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【白銀町(しろがねちょう)】
築城当初は片原町と呼ばれていましたが、慶安三年(1650)の町割張は既に白銀町と改名されています。著名な鍔(つば)職人である正阿弥家をはじめ、金銀細工の職人が多く居住したことから名付けられた町名といわれ、明治に入ってまもなく現在の上と下に区分されました。
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【元寺町(もとてらまち)】
元寺町は藩政時代初期は、寺町と呼ばれる寺院街でしたが、慶安二年(1649)に数ヶ寺が消失したのを機に、翌年からすべての寺院が新寺町に移転されたため、商人町に変わりました。
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【鞘師町(さやしまち)】
築城当初には寺町の一画をでしたが、元禄9年(1696)の町割帳では、鞘師町と改名されており、既に城の南側(現在の上白銀町)から移住していたことがわかります。刀の鞘を作る職人にちなんで付けられた町名で、後に南通りを上鞘師町、北通りを下鞘師町と呼称し、現在に至っています。
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【徒町(おかちまち)】
「徒町」は藩政時代初期、現在の若党町に「歩ノ者町(かちのものまち)」として町割りされましたが、万治2年(1659)当地へ「御徒町(おかちのまち)」として新割りされました。その後、「御歩行町(おかちのまち)」や「徒町(おかちのまち)」「御徒町(おかちのまち)」などと変わり、明治になって「徒町」となり、現在に至っています。
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【瓦ヶ町(かわらけちょう)】
町名の由来は、城内で使用される瓦を作っていた「御瓦屋」があったところから名付けられました。瓦ヶ町は、四代信政公代の城内の郭外移転に伴い、土淵川以東の河東地区で土手町とともに一番早く町割りされた下級武士団の居住区で、現在、上・中・南・北の各瓦ヶ町があります。
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【百石町(ひゃっこくまち)】
慶長16年(1611)弘前城築城当初の武士居住区の多くは、単に侍町と呼ばれ、当地もその一つでした。当時の百石町は現在の馬屋町の一部につけられた町名で、後に二百石町と改称されるにおよび当侍町は新たに百石町と名付けられ現在にいたっているものです。
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【代官町(だいかんちょう)】
藩政時代中期、津軽領内には18の代官所がありました。ひとつの代官所には2人の代官が交代で勤めていました。これらの代官の住む屋敷がこの通りに在ったことから、代官町と名付けられたところです。
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【和徳町(わとくまち)】
元禄9年(1696年)の家臣の城外移転に伴い、和徳村の一部が転移して作られました。藩政時代末期には和徳桝形も設けられ、青森に至る街道筋であったため、商家の町並みも形成されてにぎわいを見せました。
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【萱町(かやちょう)】
萱町は、弘前城の東に位置し、正徳元年(1711年)に南横町の新割り屋敷としてつくられ、主に下級武士が住んでいました。萱町の町名の由来は、町割以前は田園地帯でカヤが群生していたことによると伝えられています。
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【茶畑町(ちゃばたけちょう)】
寛政12年(1800)の弘前分間大絵図に武家屋敷が配置されており、町名は屋敷割がされる以前に、茶畑があったことに由来するといわれる。幕末に町割の変化が見られ、文久3年(1863)には、江戸で勤務していた武士を帰国させるために長屋が建設された。 
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【大浦町(おおうらまち)】
初代藩主為信が津軽氏と改称する以前の姓が「大浦」でした。藩政時代初期は城内の一画に大浦町を町割りしていましたが、後に現在の地に移転し、藩政時代末期まで重臣たちが住んでいたところです。
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【蔵主町(くらぬしちょう)】
藩政時代初期は町家として町割りされ、「蔵人町」と呼ばれていました。その後早い時期に侍町に変り、「蔵主町」と文字が変り、後に現在のように呼び方が変りました。
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【笹森町(ささもりちょう)】
当初は、弘前八幡宮への表参道であったため、「八幡町」と呼ばれていました。慶安年間(1648年~1652年)のころ、篠森勘解由(ささもりかげゆ)という豪傑な武士が住み「佐々森町通り侍町」と呼ばれ、元禄時代に現在のように変りました。
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【亀甲町(かめのこまち)】
慶長8年(1603)からの弘前城築城と城下町の建設に際して、最初に町割りされました。町名は、城を守る東西南北の四神のうち、北の神である玄武(甲羅があり、姿が亀に似ている想像の生き物)にちなんで命名されたと伝えられます。
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【禰宜町(ねぎまち)】
弘前城築城とともに町割りが行なわれ、弘前総鎮守八幡宮の神主(禰宜)と、別当最勝院の僧侶たちが多く住んだことから、町名になったといわれています。八幡宮への参詣道として、門前町を形成していたところです。
大杵根神社(山王神社)(弘前市田茂木町・禰宜町)
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【田茂木町(たもぎまち)】
元禄年間(1688年~1704年)に、家臣の城外移転のために町割りされました。元文4年(1739年)8月の大風で、町内の山王神社(現大杵神社)の御神木の田茂の木が倒れたという記録があり、町名はこの木に由来するといわれています。
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【新町(あらまち)】
当初は、岩木川原も含み、山師や木場人足が住むほか、造り酒屋などのある商工業の町で、人足の気性の荒さや川の氾濫から「荒町・阿羅町」と書かれました。寛文五年(1665)までは江戸への道筋で、南北の町並みを江戸町とも呼びました。
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【鷹匠町(たかじょうまち)】
慶長16年(1611)城下町高岡(現在の弘前)が作られ、この地を鷹匠町と名付けてから今日まで一度も町名変更のなかった弘前でも数少ない町の一つで、その名のとおり武士の外に多くの鷹匠が居住したところと伝えられています。
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【馬屋町(まやちょう)】
築城当初は城の一郭で、「西外曲輪(にしそとのくるわ)」と呼ばれ、百石取りの侍屋敷と藩主や家臣の馬を慣らす馬場や厩がありました。藩政時代中期になると厩は少なくなりますが、これにちなんで呼ばれるようになりました。
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【五十石町(ごじっこくまち)】
慶長16年(1611)の弘前城完成に伴い、城の西側を守る中級武士の住む町として町割りされました。このときに五十石町と名付けられて以来、変わることなく現在まで使われている町名です。
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【紺屋町(こんやまち)】
藩政時代初期から染物屋の町として町割りされ、百軒以上(145軒ほど)もの染物屋が建ち並んでいました。当時は、染物といえば藍染めであり、染物屋のことを「紺屋」と呼んでいたことから、町名となったといわれています。
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【駒越町(こまごしまち)】
ここは弘前城下から、藩祖為信の居城であった大浦城跡や岩木山神社に続く通りで、駒越川(現岩木川)には橋がなく駒越渡しと呼ばれた渡し場がありました。貞享元年(1684)ころに町屋として町割りされ、酒造や雑貨商などが軒を連ねて栄えてきました。
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【春日町(かすがちょう)】
宝永8年(1711)弘前城の西北端 馬喰町の北側に町割りされました。現在も同所にある春日宮は、宝永5年(1708)に建立が計画され、延享2年(1745)に完成したもので、町名はこの宮に由来するといわれています。なお享保10年(1725)には、町内の御用地に星場(射撃場)も作られた、典型的な侍町です。 
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【浜の町(はまのまち)】
参勤交代のとき、もとはここを経て鯵ヶ沢に至る西浜街道を通って、秋田領に向かっていました。町名は、西浜に通じる街道筋にちなんだと考えられますが、宝暦6年(1756)には藩の蔵屋敷が建てられ『御蔵町』とも呼ばれました。市内では数少ない「こみせ」が残る地域です。 
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【樋の口町(ひのくちちょう)】
天文年間(1532~1555)の史料に「樋口」の地名が見られ、延宝二年(1674)などの岩木川の堰き止めにより、その支流であった樋ノ口川は田畑に姿を変え、弘前城下からの入作者も多かったところでした。
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【鍛冶町(かじまち)】
鍛冶職は、武士にとっては刀や鎧などを作る最も大切な職業で、合戦となれば最初に城内に引き入れるため、当初は城の近くの現在の覚仙町、本町付近に町割りされていました。しかし、平和が続いた江戸中期頃から武士用がすたれ、日用雑器、農工具を作るようになり、城からだんだん離れ現在の地となりました。
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【桶屋町(おけやまち)】
寛文十三年(1673)ころは、新しくできた町として町割りされ、元禄十三年(1700)には桶屋町と呼ばれていました。桶や樽などを作る職人が多く住んでいたことから名付けられたものです。
辻坂
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【新寺町(しんてらまち)】
慶安二年(1649)弘前城東方の寺院街の一画が焼失したのを機に、三代藩主信義(のぶよし)は、十五ヶ寺の寺院移築に着手、南溜池西方に新寺院街を作りました。以来この地を新寺町と呼ぶようになったものです。
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【銅屋町(どうやまち)】
藩政時代初期には、本町付近に町割りされていましたが、元禄九年(1696)ころに現在地に町ができました。日常生活用具の鍋や釜などを作っていた職人が住んでいたことから名付けられたものです。
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【紙漉町(かみすきまち)】
四代藩主信政治政下の貞享三年(1686)紙漉師熊谷吉兵衛を弘前に招き紙漉に適した清水の湧くこの地に紙漉座を設け、各種の紙を漉いて、藩用にあてました。非常に良質の紙で幕府への献上品となったりしました。しかし、明治に至って衰退し、現在は町名に名残りをとどめるだけです。
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【富田の清水(とみたのしつこ)】
この辺りは、古くから清水の豊富な所として知られ、富田村に所在したことから、「富田の清水」と呼ばれて来ました。この豊かな清水は、4代藩主信政によって、初めて製紙法が導入されたさいに、紙漉きに使われるなどしましたが、その後、地域住民の生活用水として利用され、現在にいたっています。
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【松森町(まつもりまち)】
貞亨2年(1685)参勤交代の通路となった碇ヶ関街道の道の両側には、たくさんの並木松が植えられました。この松並木を手入れする人達「松守」をこのあたりに住まわせたことから、この地を松森町と呼ぶようになったものです。 
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【楮町(こうじまち)】
楮とは、その川から紙を製造する木です。このあたりは四代藩主信政時代楮の畑にしましたが、町割が拡張されることにより畑に家が立ち並び、元禄13年(1700)楮町と名付けて開かれたところです。 
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【桝形(ますがた)】
城下町の道路は、敵の侵入を困難にするさまざまな工夫がされていましたが、見通しを防ぎ、直進できないように二重の角をつけた桝形もその一つです。ここは城下の南東の出入口の守りで、古くは富田町桝(升)形と呼ばれていました。
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【千代の松原(ちよのまつばら)】
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【時鐘堂跡】
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