
ブラタモリでやっていたように山谷堀公園を歩いてみることにしました。



今戸橋から日本堤橋まで。





案内板より。


都下水道局ポンプ場のところから隅田川へと注ぐ約700mにおよぶ山谷堀は、北区の音無川を源とし、飛鳥山の北側、王子権現の下を経て通じていた。





当時、この堀は吉原への通路の一つであった。山谷堀を通るので吉原通いを別名、山谷通いともいった。猪牙船などを仕立ててこのコースを使う遊興はぜいたくとされ、まさにおだいじん遊びだった。


堀の上流の方から日本堤橋、地方橋、地方新橋、紙洗橋、山谷堀橋、正法寺橋、吉野橋、聖天橋、今戸橋と九つの橋がかけられていたが、埋立に伴いすべて取り除かれており、橋台のみが昔の面影を残している。


現在は、水と緑の懇いの公園として整備されている。」

昭和50-53年、山谷堀は埋め立てられて暗渠となりました。

浅草紙で有名な紙洗橋。


近くに地蔵堂がありました。

紙職人が屑紙を煮て溶かし、それを冷しているまでの間、暇つぶしに吉原へと足を運び、買う気もないのに格子の遊女を見ては品定めしたり、からかったりしたことを「冷やかし」と言いました。今でも使われる冷やかしという語源が生まれた場所です。

辞書を調べると【冷やかし】1.相手が困ったり恥ずかしがったりするような冗談を言ってからかうこと。2.買う気がないのに値段を聞いたり品定めすること。3.遊里で登楼せず張り見世の遊女をからかったり品定めしたりすること。

日本堤は江戸時代に造られた人工的な土手道です。土手の痕跡は残されていませんが通称土手通りがあり、店名(土手の伊勢屋など)にも土手が使われたりしています。

成立過程は解明されているわけではありませんが、江戸市街地の水害対策と言われています。

名所江戸百景に描かれた歌川広重の吉原日本堤を見れば相当立派な堤だったと伺えます。

ここからすぐ近くには田圃に土盛りをして長方形に作った新吉原があります。

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