
弘前の悪戸と下湯口の境目付近の交差点にある追分石。

やきとり山形屋や栗嶋商店がある交差点。弘前城下と相馬村を結ぶ街道沿いであり、馬乗継地となっていた地区です。


「追分石とは、街道の分かれめに建てられた道標の石のことです。ここの追分石は右が清水方向(東目屋・清水とは悪戸(旧清水村)のことではなく、桜庭の清水観音のこと。)、左が相馬方向に至る道標として嘉永五年(1852)に建てられたものです。」

嘉永5年8月建立。建立者は成田長四郎。この方が清水観音の信者であったために清水と刻んだとも伝えます。

追分石には道標の他にも、中から悪を追い出し、外から入ってくる悪の進入を防ぐ道祖神的意味もあったといいます。罪人が村送りにされて処分される際には村内ではなく追分の外で斬られ、その罪人の恨みが村内に入らないようにしたといいます。追分石に地蔵や百万遍の石碑類が建てられているのは追分石と共に供養を兼ねていたとも考えられています。

もちろん、ここの追分石に関するエピソードではないですよ。津軽の追分石は歴史が浅く、また数も少なく、その多くは天保年間以降の建立が多いです。ちなみに目屋に向かう道にはこれを含めて3基の追分石が現存しています。もう一つは百沢への道が分岐する五代の追分石(弘化2年10月。左目屋街道・右百沢街道・中央岩木大権現)。もう1基は大久保から岩木川の急流を避けて高所に進む坂道の上部にあり(文化14年2月。左清水・右山道)、3基とも江戸時代後期の造立。三十三観音巡礼において久渡寺の後、2幡の清水観音に向かうにあたり、悪戸から大久保の坂を通るか、五代から目屋への本道を通り桜庭にむかっていた(もしくは五代を通って直接3幡の求聞寺にむかっていた)ことがわかるものです。

コメント