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慶長8年(1603)に為信(慶長9年客死)が鷹岡に築城開始。慶長14年(1609)に信枚が堀越城・大浦城の遺材を転用し築城再開し、慶長16年(1611)に鷹岡城(弘前城)がほぼ完成。しかしこの時点では本丸の石垣は未完成でした。
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それから約80年後に如来瀬地区などから石を切り出して、本丸石垣を築いたそうです。このことについては以前から言われていたことではありますが、2013年9月に弘前城本丸の石垣調査によって石は如来瀬、兼平産であることが正式に裏付けられました。
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その如来瀬石切丁場跡はというと如来瀬神明宮左側南北160m、東西60mの範囲にあります。
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切り出した痕跡が見られる石材が至るところに。現在は約50個近くで、大きいものは3mにもなります。ちなみに兼平でも石は見つかっていますが矢跡の大きさなどから明治以降のものと考えられ藩政時代のものは少ないそうです。
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石切丁場における採石運搬は石切や牛遣と呼ばれる者がその役割を担っていました。構築技術者は穴生(あのう)と呼ばれる特別な職人が雇われましたが、後世に継承されることはなく、構築技術は機械技術の発達等も相まってほぼ失われることとなり、現存する石垣は非常に大きな価値を持っているものと言えます。
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※岩木山南東麓の兼平地区は昭和初期まで全国的に知られた兼平石の元採掘場。兼平石は紫蘚輝石普通輝石安山岩であり、形状は板状で中世の板碑や近世の橋、石垣、庭園の石や井戸等にも使用されました。この安山岩は約35万年前から始まった岩木山の火山活動により噴出したもので火山体を形成し、その火山体が約20万年前に山体崩壊して、土砂等が兼平地区にまで流れ落ちて堆積したと考えられ、大きさとしては小さい。
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