
古くは床舞村、床前村、徳舞村などと呼ばれ、慶長年間(1596-1615)、弘前市禅林街の石神山勝岳院(天正14年(1586)創立)が床舞村より移されたことを考えますと、古くから開村されていたことが伺えます。ちなみに石神山の山号は寺の鎮守である八幡宮の御神体が石であったことに由来。


また、すぐ近くにある狄ケ館(えぞがたて)溜池の中央部へ舌状に突出した海抜10~15mの低台地先端には、石神遺跡(縄文前期-晩期に移住されていたと推測)があり、歴史的にも相当古い地区と言えます。




菅江真澄が天明5年(1785)8月に「床前といふ村のこみちわけ来れば、雪のむら消え残りたるやうに、草むらに人のしら骨あまたみだれちり……こはみな、うへ死にたるものヽかばね也」と記しています。所謂天明の飢饉の惨状を記したもので、その生々しい表現が非常に印象的な一節です。また、外浜奇勝にて、寛政8年(1796)7月6日に床前近郊における虫送りの様子を描写しています。

森田村誌によりますと、八幡宮は延宝2年(1674)8月床舞大館再建とありますが創建不詳。※宝永年間に宮司宅の類焼により記録等を失っています。御祭神は誉田別尊。

貞享4年検地水帳によりますと「八幡社地拾間九間 三畝歩 宮建有之 住泉坊」とあり、明和8年・寛政7年・天保2年・弘化4年の棟札があり、明治5年に現在地へ移転しました。

神社庁によりますと慶長年中の中頃より社司。
延宝2年(1674)8月床舞大舘之内へ再建。
貞享4年(1687)5月八幡地住泉坊抱。
延享4年(1719)6月2日平間大和守藤原森貞に風折鳥帽子狩衣許可。

宝暦2年(1752)社地住泉坊を社司に。
明和4年(1767)平間河内守藤原盛為に風折鳥帽子狩衣許可。
安政4(1857)年2月と5月平間社司による「御関所通行手形」。
明治5年用水池の増水により社地が水で浸されるため現在地に移転。
宮司、 中興の泉大夫より名が見え、中興の祖初代平間泉大夫から現在15代目。

本殿前には木々が植えられています。


摂社猿賀大神。


庚申塔など。



庚申ではなく幸神と記しているものが多いです。


紀年銘「天保三年壬辰七月十六日」。

紀年銘「大正三年四月四日」。

「天保七丙申年三月」紀年銘の牛頭天皇。

「大正15年5月14日八坂神社 床舞村」など。

馬頭観音。

保食神。

水虎様。


末社稲荷宮。


馬頭観世音。


緑の中を走り抜けてく真っ赤な…

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