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今回は私の大好きな神社を紹介します。奥州総鎮護、志和稲荷神社。岩手県紫波郡紫波町升沢。紫波ICから車で5分、盛岡駅から車で35分ほどなので、是非とも神社好きには参詣して頂きたいですね♪
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写真では伝わらないかも知れませんが、鳥居でかい!!!!
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扁額には「神社本庁統理徳川宗敬謹書」とあります。
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説明すると長くなるので、徳川宗敬に興味がある方はWikipediaでどうぞ(笑)
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近くに鳥居についての由緒(昭和8年7月吉日)がありました。
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東北一の大鳥居(創建当時)とあります。縣社昇格15周年。県社に昇格したのは大正7年6月(1918)。
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主祭神は宇迦之御魂神。猿田彦大神と大宮能売大神を配祀。
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由緒(パンフレットより)。
『天喜5年(1057)源頼義・義家が安倍氏一族の征討のため下向され志和陣ヶ岡に滞在中、祈願のために勧請され、その後、藤原秀衡菅領のとき志和城主である藤原氏の一族樋爪俊衡・同秀衡が再建され、その後正平年間(1346-1470)足利氏の一族斯波家長が志和城主の時社殿を新築され、その後は斯波氏累代の崇敬厚く、7代千直の代に再建。
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ついで天正16年(1588)斯波氏に代わって南部氏の領となり、南部氏代々の祈願所として歳々直拝され、社領奉納普請を重ねられた外、盛岡から五里の間「志和稲荷街道」の参道をも開かれました。
なお、大正7年(1918)県社の社格に列せられ、更に昭和32年(1957)6月、神社本庁別表に掲げる神社となりました。』
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その他の文献による由緒。
『升沢西部山麓、滝名川上流左岸に位置。祭神は宇迦之御魂命(稲倉魂命)で旧県社。江戸時代には盛岡城下と当社を結ぶ志和稲荷街道がありました。
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伝承によると天喜5年(1057)源頼義が陣ヶ岡に布陣した時、戦勝祈願のため京都伏見稲荷神社の分霊を勧請したものとされ、文治5年(1189)の奥州合戦のとき源頼朝が再興。また建武2年(1335)紫波郡へ下向した斯波家長が伏見稲荷神社を勧請、建立したとも伝えます(志和軍戦記・邦内郷村志)。
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天正16年(1588)5月28日付の棟札に「奉建立稲荷大明神御宝殿悉地成就之所」とあり、大旦那として源朝臣志和孫三郎詮直の名がみえ、高水寺城主斯波詮直が当社を造営(紫波町史)。同年斯波詮直は、南部信直の攻略によって山王海へ逃亡しましたが、その際当社別当の成就院へ一時身を潜めたといいます(奥南旧指録)。
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斯波氏滅亡後は南部氏の崇敬も厚く、慶長4年(1599)の南部利直知行宛行状(志和稲荷神社文書)によりますと、稲荷禰宜手作田畑24石余が寄進されています。同17年に平沢村のうち稲荷禰宜手作地20石が寄進され、同19年には10石余が加増(「南部利直寄進状」同文書)。承応元年(1652)八戸弥六郎直栄(遠野南部氏)も社領7石を寄進(内史略)。その後も盛岡藩から3度にわたり寄進され、嘉永2年(1849)には同藩からの寄進高は都合70石となり、南部家一族の祈願所的な性格をもつようになります。
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寛永21年(1644)5月、当社の大滝で6ヶ寺が読経する雨乞が行われています。正保3年(1646)には稲荷堂が建立されます(雑書)。御領分社堂には「稲荷宮 本地十一面観音 神号稲倉魂命奉祝候」とみえます。
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天明5年(1785)当地方を旅した菅江真澄は志賀理和気神社を参拝し、「西なる吾妻峯といふ麓に、志和の稲荷といふ神あり。いにしへの鹿猟分しかりわけの社こそ、此神の瑞籬を申奉りけめと、をしゆる人ありき」と記しています。
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天保5年(1834)盛岡藩主南部利済は日光街道になぞらえ、藩主手許金で志和稲荷街道の造成工事を着工、翌年完工(篤焉家訓)。同街道は盛岡城下から津志田村(現都南村)の川久保、赤林村・広宮沢村を経て、和味村(以上現矢巾町)、南伝法寺村・小屋敷村・上松本村と西部山麓を通り当社に至います。全長約15kmで松並木や一里塚が設けられていました。同13年には改修工事が行われています。
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斯波氏や南部氏の手厚い信仰と保護によって、紫波郡鎮守として郡民の信仰を集めたばかりでなく、広く他領にまで信仰がいきわたり、江戸時代中期以降には水上之御神として海岸部にも信者が拡大(紫波町史)。
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例祭は春の三午祭(旧暦2月の初午・中午・末午)、例大祭(5月5日)、秋の三九日祭(旧暦9月9日・19日・29日)、御年越祭12月8日と年間を通じて多彩に催され、特に近年は交通安全の守護神としても著名。明和元年(1764)の孟春田植躍秘伝一軸を所蔵。』
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明治初年までは神仏混淆の影響で、修験道寺院である成就院が別当として管掌していたそうです。本地仏十一面観音。
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例祭は5月5日(1982年以前は旧暦9月19日)。
伝統神事として白馬参進神事があります。
志和稲荷神社創建900年を奉祝し始められた式年の祭典で午の年に齋行され、白馬を中心として家内安全・五穀豊穣・産業発展を祈り約200人の行列が町内を練り歩く祭典。旧暦2月午の日の三午祭もあります。
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耳欠け石造狐。
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滝名川の水をめぐって稲荷前で水喧嘩が度々起り、農民同士が我田引水の血を流す騒動があったとの記録が残っており、その時に被害にあったと伝えられています。
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拝殿前にある銭撫獅子。
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お札で撫でるそうです。
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手水舎は改築中でした。
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志和稲荷神社」HP
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