イメージ 3
中世より現在の春日部市にあり後に移転。
イメージ 4
本寺は不動院といい西向天神社の別当寺でした。西向天神の中興者が玄信大僧都であったことから本山派修験との関係が強いのですが、現在地へ移転する前より本山派に属しており、移転後は天台宗本山派の江戸番所を勤めています。
イメージ 5
江戸時代には聖護院門跡の直末として、天台宗兼正大先達という位置にあり、院家に準ずる格式でした。明治の神仏分離令により西向天神社と分かれます。
イメージ 6
山吹坂。
イメージ 13
イメージ 12
大聖院境内へと上る坂。
イメージ 11
勾配がある細い石段の坂です。
イメージ 10
「この坂上の大聖院境内にある紅皿の碑にちなみ、こう呼ばれるようになった。紅皿は太田道灌の山吹の里伝説で、雨具がないことを古歌に託して、道灌に山吹の一枝を捧げた女性である。」
イメージ 8
イメージ 9
大聖院文書。
「大聖院に伝来する古文書・古記録類で、宝暦元年(1751)から明治4年(1871)におよぶ2巻5冊1葉である。内容は大聖院と別当寺をつとめていた西向天神の由来に関するものが多いが、文政7年(1824)の東大久保村地誌書上帳や境内にある紅血の碑に関する「紅皿縁起」なども含まれている。点数は少ないが、残存する古文書の皆無な大久保地区にとっては貴重な史料である。」
イメージ 7
紅皿の墓は隣接する法善寺の崖際にあったもので、崖崩れのために現在地へ移したといい、江戸中期には既に現在地にあったとされます。
「太田道灌の山吹の里伝説に登場する少女・紅皿の墓と伝承される中世の板碑(1基)、燈籠(2基)、水鉢(1基)、花立(2基)から構成される。板碑は区内で唯一のものとなる中世の十三仏板碑である。また、板碑の前には12代守田勘弥や歌舞伎関係者により石燈籠等が立てられ、その存在が広く知られるようになった。
伝説では、太田道灌が高田の里(現在の面影橋のあたりとされる)へ鷹狩に来てにわか雨にあい、近くの農家に雨具を借りようと立ち寄った。その家の少女・紅皿は、庭の山吹の一枝を差し出し、御拾遺集の中にある『七重八重花は咲けども山吹の実のひとつだになきぞかなしき』の歌にかけて、雨具(蓑)のないことを伝えた。後にこれを知った太田道灌は歌の教養に励み、紅皿を城に招いて歌の友とした。道灌の死後、紅皿は尼となって大久保に庵を建て、死後その地に葬られたという。
紅皿の墓とされる伝承が江戸時代中頃成立、展開し、幕末維新期を経て広まっていく様子を知ることができ、伝承、文献も含めた史跡として位置づけられ貴重である。」
イメージ 2
こちらは北の方から大聖院の不動堂に向かう不動坂(写真右・坂下に不動坂と掘られた石柱あり)。
イメージ 1
ブログ村ランキング参加中←クリック宜しくお願いします♪