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弘前城本丸より紹介していきます。
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旧天守閣跡(本丸未申櫓跡)です。
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弘前城築城当初の5層の天守があった場所になります。寛永4年(1627)に火災により焼失。文化7年(1810)まで天守の新造が認められなかったため、本丸未申櫓が建てられていました。
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藩庁日記によりますと、元禄7年(1694)に石垣を修理した際、不動明王の梵字を刻んだ石が出土し、その石は最勝院に保存されているといいます。
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櫓からは岩木山や下町が美しく見えたんでしょうね。現在の高さでは無理だなぁ。
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禅林街ははっきりとわかりますね。
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本丸戌亥櫓跡。
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城郭に取り付く敵を攻撃したり物見のために造られました。防弾・防火のために土蔵造りで、元禄3年(1690)にとち葺の葺替えが終了したと伝わっています。また同9年には、櫓下にあった番所の修復も行われたとされ、北の郭から櫓台下、本丸への通路がありました。
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鷹丘橋が見えます。ここから真下の蓮池には大石があります。
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津軽為信像。
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現在は弘前市文化センター前に津軽為信銅像があります。これは平成16年4月に古川武治、武彦父子が制作したものです。かつての津軽為信像は明治42年に山崎朝雲が制作したもので、本丸に建立されていました。昭和19年に太平洋戦争における金属回収によって秋田県小坂鉱山へと送られてしまいました。あっ、武徳殿の位置はここだったのかぁ。
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在りし日の本丸津軽為信像。
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御日記蔵跡です。
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弘前藩庁御国日記と呼ばれる日記は、寛文元年(1661)に4代藩主津軽信政の初入部以降、明治に至るまで綿々と書き続けられ、津軽藩政のみならず近世幕藩体制を知る重要な史料となっています。この日記は現在4200冊余が残されており、これを保存した蔵がここにありました。
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石垣際に建てられていたようです。石垣の角(鶴の松横)の石垣には見張場。
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御金蔵跡。寛文13年(1673)の絵図に既に記載が見られますが、延宝8年(1680)に建設されたとも言われています。確かに古地図ではちょっと場所が違うような気がします。
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元禄4年(1691)には屋根が瓦葺であったと伝わっています。入口前には番所も置かれ、有名な古木として5つ葉のヒメコマツがあったといいます。また「牛こなかせ」と呼ばれた小高い場所でした。
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御金蔵跡の隣の高台。
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立入禁止になっていますがここへ上がる石段があります。
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この高台にはかつて何かが設置されていたのでしょうか。
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反対側の石垣手前にはかつて番所がありました。
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そういえば未申櫓の近くにも石段だけが残っているのを思い出しました。ってことは石製のベンチがあったのかな?
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最後に…
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三角点(笑)
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