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「はくちょう亭奈良屋」の駐車場隣から結構勾配のある道を登っていきます。
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車は十三湖湖岸公園に停めればいいと思います。
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坂の途中に長寿の水。
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今泉賽の河原は縄文土器や土師器片が散布する遺跡(大石崎遺跡)として知られています。
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寛文9年(1669)、今泉観音堂が建立された場所。幕末飛龍大権現を祀る飛龍宮となりましたが、神仏分離により明治6年に神明宮を分立、堂社は壊されましたが同8年に再建。
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地蔵尊も祀られていましたが、享保元年(1716)に善導寺六世良演上人が川倉村(五所川原市金木町の川倉地蔵尊)へ遷したと伝えられています。
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その後、歴史上から姿を消していますが、近年(明治以降)になって地蔵堂や地蔵群が再建されて例大祭が行なわれるようになったとか。今泉地区住民が隣近所で33の組を作り、地蔵33体を祀っているそうです。
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今泉賽の河原例大祭の際には災害(1340年の大津波)や戦乱(1421年の動乱)で命を失った人たちを供養するために多くの参拝者が集まります。イタコの口寄せが行なわれたりと厳かな雰囲気かと思いきや、登山囃子や歌謡ショーやカラオケ大会が行なわれるなど結構賑やかな雰囲気。
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中里町誌によりますと、津軽地方における地蔵信仰の拠点五所川原市(旧金木町)川倉地蔵尊は、元々今泉賽の河原にあった地蔵を、享保元 (1716) 年中泊町深郷田善導寺六世良演上人が移したものとしています。
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この説が正しければ、少なくとも今泉賽の河原の歴史は、江戸中期以前に遡ることになります。ただしその30年ほど前に実施された貞享検地帳ほか、文書記録類には賽の河原に関する記載はまったく認められません。
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同地が再び歴史に登場するのは、先にも述べました通り明治以降のことです。国有原野に編入されていた同地は、明治後期今泉地区に払い下げられた後、所有が転々とし、耕地や小学校運動場等に利用されてきました。
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明治時代に活躍された今泉出身の関脇「源氏山又市(今泉又市・源氏山頼五郎)」の碑。
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今泉賽の河原の高台からは当然十三湖が見渡せます。
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