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本尊は釈迦如来。もと耕春院末寺。開山は文禄4年(1595)耕春院八世中厳撮堂。開基は不詳。
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かつては森山村(現大鰐町)にあったとされます。その昔、龍岩という者が石川の森山(現大鰐町森山)で白狐を見かけました。その口には木片を咥えており、龍岩を見るとその木片を落として去っていきました。木片は薬師如来の御姿をしており。龍岩はこの地に庵を結び、像を供養していましたが、日増しに信者も増え、文禄4年に耕春院宗徳寺の中巌撮堂和尚を勧請開山として「薬王院松傳寺」を開きました。龍岩自らは二世龍岩林朔として正伝寺の礎を築いたそうです。
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寺伝によりますと三ッ目内村(現大鰐町)にあった金竜寺の末寺と伝えます。
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正徳元年(1711)の寺社領分限帳では、慶長年間(1596-1615)に現在地に移転とします(※当寺が移転したのは延宝8年と伝える)。同帳及びそれ以前の史料によれば松伝寺とみえ、津軽一統志には正伝寺とあるので、享保年間(1716-1736)初期に現在の名称に変わったと考えられます。
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岩館村(現平川市)の豪農斎藤甚助家の菩提所で、延享4年(1747)に同家が独力で再建したといいます。斎藤甚助家は全国有数の長者であり、津軽藩の藩米を江戸で売る権利を委ねられていました。現在に伝わる寺宝(本尊の脇侍二体、津軽藩祖為信公の臣であった小笠原伊勢の自画賛)も斎藤家によるもの。また、37世祖道達温和尚は弘前市民から「ねぷたの和尚」として知られていた絵師でした。現代ねぷた絵の祖といわれる竹森節堂画伯に師事し、筆を叩きつけるかのような豪快で迫力のある画風を確立。38世もねぷた絵師として跡を継ぎ、「ねぷた寺」としても親しまれるようになりました。
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寺宝に藩祖津軽為信の三老の一人、小笠原伊勢信清自賛の掛軸があります。
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また、何といってもこのお寺は渡辺金三郎断首図(京都町奉行所四与力暗殺事件。首は粟田口に晒されました。)で有名です。
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その昔、某生放送番組中に目が開いたとして話題になったあの掛け軸です。ハエじゃないかとも言われましたが、もしハエだとしても、それはそれで凄いと思います(笑)
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結局この真相はわかりませんが、いずれにしても生首の絵ってだけで怖いですよね。血の部分は本人の血液を混ぜた塗料で描かれているそうですし。
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動画もあります。
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私も樹木のギャラリー森山で夏に開催されるゆうれい展にて、この掛軸と数分間向き合いましたが、残念ながらこちらを見てくれませんでした。
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よほど私に魅力がないのでしょう。毎回展示されているので興味ある方は是非行ってみてね。
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