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西浜街道沿いに発達した独狐。正保4年に石渡村から独狐村まで新道が開かれています。
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前坂。
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独狐は天文年間の津軽郡中名字にもある古い街村で、往来の馬のわらじが売れる賑やかな町だったといいます。
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その独狐の北のはずれの左側の丘に七面様で有名な感応寺があります。
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天正の頃(1573-1592)に近村の鎮守観音菩薩の社地であった場所に元和8年(1622)開山円長院日成が三ッ森に草庵をむすび、御題目を唱え、布教にあたられたのが始まりとされます。
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中興の祖円乗院日真が七面様をお祀りして伝道布教に努めます。日真は7度も身延山へ登詣して修行した信力堅固な清僧だったと伝えます。※あるいは新寺町本行寺の日意が再興とも(本行寺脇寺の受源院の重宝錦襄によりますと元和8年、元文3年に現在地に移ったとし、国誌は元文5年とし開山を日貞としています)
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享保年間(1716-1736)津軽の国一円が大旱魃にあった際、日真の雨乞いにより恵の雨が降ったそう。この霊験に深く感謝した藩主信寧公より、数万坪の土地と堂宇の寄進を受けます。日真はその法功により「聖人」号を贈られました。
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また、重宝錦嚢によりますと、元和8年(1622)に創建され、元文3年(1738)に三ツ森村より当村へ移転。貞享4年(1687)の三森村の検地帳によりますと、同村に法華宗の感応院があり、同院抱の観音堂があります。弘前城下の本行寺の末寺で、本尊は十界曼荼羅、開山・開基とも不詳ですが、明治初年の国誌では元文5年5月15日中興で、開山を日貞としています。
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延享元年は雨量が少なく、藩では諸寺院や神社に雨乞いを命じています。感応寺も竜神である七面様を祀って祈祷したといいます。藩主は大変喜び、感応寺の寺名を賜ったといいます。
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境内には日蓮像をはじめ、七面堂、清正公堂が立ち並んでいます。加藤清正像を安置する加藤清正堂(天保4年建立)は天保12年に藩の家老大導寺氏が寄進。
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妙智力大明神。
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芭蕉の『風流のはしめや奥の田うゑ唄』の句碑があります。文化4年5月に遠藤文石によって建立。文石は文化4年9月に亡くなっており、亡くなる直前のものであったことがわかります。遠藤文石は城下の商人金谷兵右衛門といい、寛政、享和、文化にかけての津軽俳壇のリーダーであり、弟の二松や文子も俳人で、兵右衛門を襲名しています。
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こちらにも同じ句碑があり、二松などの名があります。
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