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寛永末年の津軽弘前城之絵図では、子の櫓、門に囲まれた入母屋造りの平屋の建物、渡り廊下で繋がれた長屋風の建物などが見られる場所。館神の入口には平屋の建物が配置。
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宝暦6年の御本城絵図によりますと、館神が記載され、更に文化2年の御城郭分間真図では屋形風の建物はなく、御宝蔵や御蔵が記載されており、郭の使用形態が時代によって変わってきたことを伺わせます。
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武徳殿です。
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この場所にはかつて武徳殿と無料休憩所などがありました。
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武徳殿は柔剣道の練習場として明治末期に建設。建築当初の武徳殿は寅武場と呼ばれており、平成9年(1997)に弘前市が行った発掘調査では建物の前に門があったことがわかっています。
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太平洋戦争中の昭和17年(1942)に修練道場が建設され、昭和27年(1952)には公園管理事務所が整備されると共に無料休憩場が設けられました。
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平成15年(2003)に改修されて、武徳殿休憩所となり、かつての無料休憩所は和風庭園になりました。
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平成11~13年に行われた北の郭発掘調査の遺物の一部も展示されています。
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籾蔵跡です。ここには津軽為信の正室である仙桃院が住んだといわれる屋形があり、その後、4代藩主信政の生母である久祥院の屋敷として整備され、宝永元年(1704)以降は宝蔵や籾蔵が建てられ、廃藩置県の頃には籾蔵が建ち並んでいました。
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平成12~13年の発掘調査で、籾蔵を構成する礎石列が確認されました。礎石は約1m間隔で並び、東側および南側は後世の建物のため失われていましたが、12間×4間(約24m×8m)の規模であることがわかりました。この籾蔵が建てられた時期は19世紀前半であると考えられています。
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