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2代藩主津軽信枚の慶長16年(1611)建築。棟高11.7m。
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弘前城の追手門です。古地図では大手門とも記されているものがありますが、一般に追手門としています。かつては裏門(搦手門、南門)でしたが参勤交代の経路変更により、1665年(寛文5年)に正門である追手門になりました。
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追手門付近は門が建築される以前は沼地であったのを埋め立てして創建されたと考えられています。
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追手門には出格子窓が備えられており、内側から外部を監視していたものと思われます。2階にも出格子窓が備えられ。その隣にはよく見ると三角の小さな穴があります。これは敵を狙い撃ちするための銃眼です。
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弘前城の門は、間口の高さが他の地域の城門に比べて高く作られており、これは積雪時にも槍を掲げながら門を通過できるようにするための雪国ならではの工夫。
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『史跡 津軽氏城跡 弘前城 & 重要文化財 三の丸 追手門』の案内看板。
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弘前城は、津軽藩主代々の居城で慶長16年(1161)に二代藩主津軽信枚によって築かれた城である。
面積約492,000平方メートル(約149,000坪)を有し、三重の濠と土塁でめぐらされた城郭である。
現在城跡には、天守閣をはじめ隔櫓3棟、城門5棟の建造物が残されており、いずれも重要文化財に指定されている。
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弘前城には、築城当初10棟の城門があったとされているが、現在二の丸南門、二の丸東門、三の丸追手門、三の丸東門、四の丸北門(亀甲門)の5棟が残されている。
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弘前城の城門は、周辺を土塁で築き、内外に枡形を設けた2層の櫓門であるが、門の全面に特別の門(高麗門)などを設けていないことや、1層目の屋根を特に高く配し、全体を簡素な素木造りとしていることなどから、全国の城門の中でも古形式の櫓門として注目されている。
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追手門と西門の間。
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追手門の外には藩校・稽古館、東奥義塾、弘前市公会堂が見えます。
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市役所や旧第八師団長官舎は残っていますが、藩校・稽古館、東奥義塾、弘前市公会堂は存在しません。よって藩校・稽古館、東奥義塾は跡地の碑、公会堂はミニチュアでご覧ください(笑)
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「弘前市公会堂」
大正12年(1923)建築。1897年ウイーンで始まった芸術革新運動ゼツェッシオンの影響を色濃く受けた建築物。左右・高低の対置、直線・曲線の配置など大阪市公会堂と相似し、弘前への移入の早さに先人の国際感覚と流行に敏感な気質を見ることができます。藤田謙一の寄贈によるもので、旧制弘前高等学校が1921-1923年の開校当初に仮校舎として使用していました。昭和33年(1958)に解体され、一部は弘前市中央公民館別館として利用されました。翌年の昭和34年に市制70周年を記念して弘前市新市庁舎が完成しています。
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