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鯵ヶ沢湊は青森湊と並び津軽藩の重要な湊として重要視され、この地の管理や治安維持の為寛文年間(1661-1672)に天童山館の麓に町奉行所が設置されました。
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町奉行の役割としては湊出入詮議や災害時の救助、被害報告、御役銭の取立て、荷物改め、御普請の監督、軍艦の管理などが行われ、藩主の巡視の際には休息所や宿泊所となりました。
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その為、町奉行所敷地内には藩主専用の御座間、ニノ間、三ノ間、屯ノ間、御湯殿などが設けられ「御仮屋」や「御城」と呼ばれました。
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明治2年、廃藩置県と共にその役割を終え、現在は保育園や裁判所となっています。
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保育園内には鯵ヶ沢甚句の碑が建てられていました。
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津軽百助信隆(2代藩主信枚の弟)が天童山の長松館に居た時に掘らせた7つの井戸(他は神明宮下、庚申堂下、七ッ石沢(亀井戸)、寺町、浜町、願行寺境内)。
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そのうちの1つである「城の下の井戸」と呼ばれる井戸跡。城の下の井戸の水は大変素晴らしい水で北前船にも積み込まれたそうです。
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